岡山ゆかりの歴史人物9 山田方谷(やまだ ほうこく)

山田方谷(1805〜1877)
山田家は清和源氏の流れを汲む元武家の家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。
文化2年(1805)、方谷は菜種油の製造・販売を家業とする農商五朗吉の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)に生まれる。
5歳の時に新見藩 丸川松隠(儒家)塾で朱子学を学ぶ。
文政8年(1825)、 21歳の時には名声が広まり、藩主の板倉勝職(いたくら かつつね)から奨学金(二人扶持)をいただく。
文政12年(1829)に藩主から苗字帯刀を許される。藩校有終館会頭(教授)に抜擢される。
天保2年(1831)、第3回京都遊学(夏から2年半)の時に陽明学と出会う。この時、王陽明伝習録から朱子学陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し、正しい学び方を修得した。
嘉永2年(1849)、45歳の時に松山藩の元締役兼吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に取り組む。
嘉永4年(1851)、農兵制(農民による洋式銃隊)を創設。
嘉永5年(1852)、松山藩郡奉行に任命される。
安政元年(1854)、50歳の時に 元締兼藩執政となる。
安政3年(1856)、年寄役助勤、郡奉行も引き続き兼務となる。
安政4年(1857)、松山藩の元締を辞任。
万延元年(1860)、再び藩元締に再任される。
文久元年(1861)、2月、江戸で藩主の顧問となるが、 4月には顧問を辞任し帰国。
5月には元締役も辞任。
文久2年(1862)、方谷が58歳の時に 板倉勝静が幕府の老中となる。方谷は再び勝静の幕政顧問となるが、程なく辞任、準年寄役に転ず。
文久3年(1863)、板倉勝静が上京。4月に、京都における勝静の顧問に再任されるが、5月には辞任。
元治元年(1864)、板倉勝静が長州征伐に出陣。この時方谷は留守を守る。
慶応4年(1868)、 大政奉還ののち戊辰戦争が勃発。備中松山征討軍に無血開城する
明治2年(1869)、長瀬の塾舎を増築し、子弟教育に務める。
明治4年(1871)、再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする。 
明治10年(1877) 6月22日、73歳で小阪部にて死去 。




山田方谷は大学の授業で取り上げられ、印象に残った人物です。
江戸時代は士農工商の身分制が厳格に取られていると思っていたのですが、意外にも方谷のように農民→武士身分へステップアップもできるんですね♪。
もちろん、才能がないと無理ですが…。



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