岡山ゆかりの歴史人物10 山中幸盛(やまなか ゆきもり)


山中鹿介の墓

山中幸盛(1545〜1578)
父:山中満幸、母:立原綱重の娘浪子
養父:亀井秀綱

天文14年(1545)8月15日、出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。
実名は幸盛、通称鹿介だが、講談の類で鹿之助とされたため一般には山中鹿之助と誤った表記で知られる。
山中家は、宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。尼子氏の庶流にあたり、山中幸久を初代とする。
幸盛は幼少から尼子氏に仕え、病弱だった兄の幸高から山中家の家督を譲られ、山中家に代々伝わる三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑を譲り受けた。
幸盛は16歳の時に「30日以内に戦功(武勇の誉れ)を挙げたい」と三日月に願い、山名氏との戦いで、菊池音八を一騎打ちで討ち取った。
永禄6年(1563)、白鹿城を救援するために、尼子倫久が毛利軍を攻撃するが大敗。
その後尼子倫久は毛利軍に追撃され、後陣の幸盛・立原久綱は殿を担当し、毛利軍を防ぐ。
同年10月、白鹿城は落城。
永禄8年(1565)、毛利元就尼子義久の居城である月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は高野監物を討ち取る。
毛利元就月山富田城を落とせないと判断し撤退。
同年9月、毛利元就は再び月山富田城を攻撃。
永禄9年(1566)、尼子義久毛利元就に降り、戦国大名尼子氏は一時的に滅びた(第二次月山富田城の戦い)。
永禄11年(1568)、幸盛は尼子氏を再興するために京都で僧籍にあった尼子国久の孫勝久を還俗させて擁立。
立原久綱・横道兵庫助・牛尾弾正忠・三刀屋蔵人・遠藤甚九郎ら尼子遺臣団は、山名豊祐の家老垣屋播磨守を頼り、但馬国を経由し奈佐日本之介の手を借りて隠岐に依る。
隠岐の豪族隠岐為清の協力を得て、永禄12年(1569)には海浜の出雲忠山を占領する。
その後、出雲の尼子遺臣の勢力を吸収し、新山城を攻略してここに本営を設置。
毛利氏の拠点となっていた月山富田城を除き、出雲一国をほぼ手中に収めんとするまでに勢力を伸張した。
しかし、配下の略奪行為が因幡でも見られるなど統制維持が乱れ、その後は隠岐為清の離反を招き、布部山の戦いに敗北すると衰勢著しく、元亀2年(1571)8月には最後の拠点であった新山城が落城する。
この戦いで、幸盛は毛利元就の次男吉川元春に捕らえられる。
ところがこの時、腹痛を装って何度も厠に入り、油断した監視の目を逃れるために厠から脱走し、勝久とともに再び京都に逃れた。
京へ戻った幸盛らは、織田信長に謁し、中国攻めの先方となることを誓ったとされる。
尼子遺臣団は尼子氏再興の志を秘めて山名氏の軍勢に加わり、山名氏に謀叛して鳥取城に篭った武田高信と闘い、因幡国を転戦、甑山城での戦いにて決定的な勝利を得た。
しかしその後武田氏に味方した鳥取城を毛利氏に奪われた。
この頃の山陰は勢力地図が頻繁に変わる時代であったが、その一つの要因は、山名氏が毛利と織田の二大勢力に翻弄されていたことにある。
織田氏と気脈を通じていた尼子遺臣団は、当時毛利寄りであった山名氏を離反する。
天正2年(1574)頃には因幡国の諸城を攻略し、織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・私都城を確保。
一時的に尼子氏を再興することに成功した。
しかし、天正3年(1575)9月には毛利方が私都城を攻略し、古くからの尼子遺臣であった横道兄弟・森脇久仍・牛尾大炊助らが毛利氏に降るという事態が発生した。
また、天正4年(1576)には織田信長は幸盛を庇護しない旨を吉川元春に伝えている。
重臣と庇護者を同時に失った尼子遺臣団は、居城の若桜鬼ヶ城を支えることができずに丹波方面へ落ち延びることとなった。
織田氏の処置は、本願寺などの諸勢力との闘いが続く中で、毛利氏との軋轢を一時的に軽減するための政治的な目的があったと考えられる。
この後、尼子遺臣団は再び中国方面軍に編入されることとなる。
天正5年(1577)、幸盛は織田信忠に従い松永久秀が篭城する信貴山城攻略に参加し、河内片岡城にて松永久秀の部将の河合将監を討ち取る。
信長の命により羽柴秀吉の中国遠征が始まると、その先鋒として播磨国に送り込まれ、上月城に拠って尼子氏の再興を目指した。
しかし、翌天正6年(1578)に毛利軍に攻められた際、織田軍が北の上杉謙信石山本願寺の攻勢に備えるため播磨から軍を引いたため、上月城は孤立し、「打倒尼子」の意気に燃える毛利軍の包囲攻撃を喰らい、尼子主従は城を支えきれず降伏した。(上月城の戦い)
この時、主君の尼子勝久は自害したが、幸盛は自害せず、毛利氏に降った。
しかし毛利輝元の下へ護送される途上の備中国合の渡(岡山県高梁市)の阿井の渡しにて謀殺された。時に34歳。
通説によると、幸盛は尼子氏を必ずや再興するという執念を胸中に抱いていたため、これを生かしておくと危険と見た吉川元春が先手を打ち、幸盛は殺害されたと言われている。
幸盛の死を以って尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなった。




山中鹿介は岡山ゆかりというか…、岡山で最期を迎えただけなのですが…、強引に岡山ゆかりの歴史人物として取り上げました(苦笑)。
ちなみに岡山県高梁市落合町阿部には山中鹿介の墓があります。




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