岡山の歴史18 備前松田氏(びぜんまつだし)

備前松田氏
藤原秀郷の後裔波多野氏の一族といわれる。
源義朝重臣だった波多野義通の子義常(義経ともいう)が、足柄上郡松田郷を領して松田右馬允と名乗った。
義常は治承4年(1180)の石橋山合戦で平氏方に属し、のち自刃した。
その子有経は許されて鎌倉御家人となり、一時大庭景義に与えられていた義常の遺領を与えられた。
以降、『吾妻鏡』には、右衛門太郎、九郎、小次郎、平三郎、弥三郎常基ら、松田姓の人物が見える。


『松田系図』よれば、に松田元保の子松田元国が後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府討伐の功により備前国御野郡伊福郡を与えられ、彼の地に富山城を築き本拠地にした。
以後、元喬−元泰−元方−元運−元澄と続くが、元澄(元隆)は応仁の乱にあたり、赤松方に加わり、山名氏の追い落しに功をあげて赤松氏被官となり、旧領を安堵されて伊福郷の守護代的地位となり、文明五年(1473)に富山城で死去した。


ところで、伊福郷松田氏とのちに松田氏の本拠となる金川金川松田氏とは本来別系であって併存していたとされ、元国の子元喬が金川に移って両松田氏が併合して備前松田氏として一本化されたとする説もある。
一方、この時期に備前国守護として松田盛明がいた事が記録で確認されているが、元保らとの関係は不明である。


文明15年(1483)頃には備前国西部に確固とした力を築いていたためか、守護の赤松氏から警戒され、赤松政則の追討の命を受けた浦上則宗の一族の浦上則国に攻め込まれることとなり、松田元成は山名氏に援軍を要請すると同時に、文明12年(1480)に新しい本拠地とした金川城を出撃し、赤松方の小鴨大和守の居る備前福岡城を文明16年(1484)正月に落とした。
勢いに乗った元成は備前国を掌中に収めるため、文明16年(1484)2月、浦上則国の居城三石城を落とすため東へ進撃するが、途中の吉井川東の天王原で浦上勢と遭遇し合戦に及ぶも大敗し、退却する途中、浦上勢に追いつかれ磐梨郡弥上村山で自害する。

その後も松田氏は西備前に君臨し浦上氏と対立した。
時が下り、松田元隆の代には、足利義晴のもと大永2年(1522)京の都で所司代に就任するなどしていたが、享禄4年(1531)、天王寺合戦で味方の浦上村宗とともに討死。
孫の松田元輝の代になると宇喜多直家の力が強大になり、子の松田元賢に直家の娘と婚姻させ、姻戚関係を結ぶ。
更には当時美作・備中への影響力が強かった尼子晴久が浦上氏を攻撃すべく備前へ侵攻してきた際には、尼子方に属するなどによって勢力の維持を図ろうとしたが、永禄11年(1568年)、宇喜多直家に主力の重臣である宇垣与右衛門を謀殺され、さらに直家の調略により虎倉城主の伊賀久隆に寝返られ、同年7月、宇喜多勢に金川城を攻撃され元輝は伊賀久隆の鉄砲隊により討死。
元賢も金川城落城により落ち延びる途中、伊賀勢の伏兵により討死。
元賢の弟の松田元脩は備中に逃れ(一説には因幡の山名豊国に仕えたという)、備前松田氏の宗家流は滅亡した。

ただ、庶流家である西谷城主の新庄松田氏は浦上氏に従う事で宗家滅亡後も存続し、主に美作南部の戦線で功を挙げた。
天正2年(1574)から表面化した浦上宗景宇喜多直家の抗争の際には新庄松田氏は宗景方について戦い、翌天正3年(1575)に浦上宗景が追放され宇喜多直家が実権を握ると新庄松田氏は浦上方だった事もあって所領を削られたものの存続は許された。
以後、宇喜多政権でも新庄松田氏は在地の土豪として小さいながら勢力を保っていたが、宇喜多氏の改易後は帰農を余儀なくされた。






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