岡山の歴史19 浦上氏(うらがみし)

浦上氏

平安時代中期に活躍した紀長谷雄の後裔といい、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)がその発祥地と伝えられている。

浦上は『播磨国風土記』にも「浦上里」としてみえる古い地名で、平安時代に浦上庄という荘園になり、後白河法皇によって京都新熊野神社に寄進された。
浦上庄の範囲は、現在の兵庫県たつの市揖保町一帯と考えられている。
文治元年(1184)、源頼朝から播磨守護職に補任された梶原景時が同庄の地頭職を与えられたが、法皇の訴えで景時は浦上荘地頭職を停止された。
『赤松家播備作城記』には、浦上庄内の中臣城の初代城主として「紀秀村」の名が伝えられている。
この秀村がのちの浦上氏の祖になる人物かは不明であるが、紀姓の人物が浦上庄に存在していたことは知られる。
 
浦上氏は播磨守護職赤松氏の被官として世にあらわれてくるが、浦上氏の系譜は諸種あって一定しない。

鎌倉時代末期、播磨から赤松則村(円心)が史上に現れた際には、浦上氏もその活躍の一翼を担い、鎌倉幕府の倒幕にも参加している。
ちなみに浦上氏の名が文献史料にあらわれるのは、『大徳寺文書』にみられる為景なる人物が最初である。
大徳寺の開山は大燈国師で知られる宗峰妙超で、浦上掃部入道覚性(一国ともいう)の子と伝えられている。
宗峰は同郷の赤松則村の帰依を受け、正和4年(1315)、洛北紫野に小堂を建立した。
これが大徳寺の起源となり、正中2年(1325)、花園天皇大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
後に後醍醐天皇から播磨国浦上庄を寄進された宗峰は、浦上庄の半分を一族に分配することを申し出て許され、為景が天皇からその旨の綸旨を賜ったとのことである。

南北朝時代には、赤松氏は後醍醐天皇を中心とした建武の新政権を見限り、早くから足利尊氏に従った。
尊氏が幕府を開くと、則村は播磨守護に、長子範資は摂津守護となった。
おそらくこの頃に、守護赤松氏とその被官浦上氏と言う形での主従関係が成立したと考えられている。
貞治元年(1362)、山名時氏備前に侵攻した際には、備前守護松田信重が浦上行景と共に防戦したことが『太平記』に記されている。
やがて則祐が備前守護に補任されると、行景は守護代に任じられた。
このことが播磨を本領としていた浦上氏が隣国の備前へ勢力を伸ばす足掛りともなり、以後浦上氏は赤松氏の有力被官として活躍することになる。
行景の後は、助景が守護代を継ぎ、赤松氏の被官としてその支配に尽力していたようである。
赤松義則が幕府の侍所頭人に就任すると、助景は所司代に取り立てられている。
しかし応永15年(1408)、助景は伊勢国山田において誅殺されている。
その後の所司代には浦上性貞が就いている。

赤松氏は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱を起こし没落するが、この時には浦上宗安、則永らがともに幕府方となった山名氏の軍勢と戦っている。
その後小寺豊職をはじめとする赤松氏の遺臣たちは、満祐の弟義雅の孫赤松政則をもりたてて主家再興を企画し、ついに長禄元年(1457)、政則は家督相続を許された。
応仁の乱では浦上則宗赤松政則とともに東軍の細川勝元に属し、赤松軍を率いる主将として活躍した。
応仁の乱後、赤松氏が播磨・美作・備前の三国の守護と任命されると、則宗備前守護代となっている。
文明3年(1471)に政則が侍所の所司に任ぜられると、則宗所司代となり実務を司った。
文明13年(1481)、山城守護に補任された政則は則宗守護代とするなど、ここに浦上氏の権勢は大きく伸びることになる。

しかし乱後の影響が赤松氏の領国にも及ぶこととなり、文明15年(1483)11月、備前御津郡金川城主の松田元成が、山名氏と結んで備前福岡を攻めた。
赤松政則は但馬の山名氏を攻撃する戦術をとったが、但馬守護山名政豊に大敗し播磨は乱戦模様となった。
この結果政則の権威は失墜し、政則は和泉へ逃れている。浦上則宗は小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実らの諸将と図って、五人の連署で赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に家督を継がすよう画策も行っている。
しかし足利義政の仲介により、政則と浦上氏らは和解し、文明17年3月から山名氏との播磨を巡る攻防に入った。
坂本城を拠点とする西播磨の山名氏と、長享2年(1488)7月に勝利するまで5年間に渡り対峙した。
やがて播磨・美作・備前を回復した政則は、第10代将軍足利義材の軍奉行となるなど活躍し、明応2年(1496年)従三位に叙せられている。

赤松政則の死後、その養子である赤松義村は、浦上氏などに支持される形で、播磨・備前・美作の守護に就いたが、義村は自立の機会を伺っていた。
浦上宗助の子である守護代浦上村宗は、永正15年(1518)義村と対立し居城の三石城に退去した。
しかし義村は守護の権威をもって村宗の討伐を企図し城を囲んだ。
村宗は主家からの攻撃に狼狽したが、重臣の宇喜多能家らの支えにより攻城戦を乗り切った。
翌年の永正16年(1519)、義村は再度兵を起こし、浦上氏に対抗する有力家臣である小寺城主小寺則職を主将として美作の浦上方の諸城を攻撃させた。
赤松勢は浦上勢を圧倒し義村の目的は達成されるかに思えたが、やがて則職の軍は打ち破られた。
逆に村宗は播磨に攻め入り義村を捕らえ、窮した義村を隠居させた。
その後義村を幽閉し殺害した(1521)。
これにより名目的にも実質的にも、播磨・備前・美作の支配権を得て戦国大名への道を歩み始めた。

村宗は享禄4年(1531)6月、天王寺の戦い(大物崩れ)で討死する。
嫡子である浦上政宗は未だ幼少の身であったが浦上国秀など一族の有力な家臣の補佐もあり、無事に元服を果たす。
その後、尼子詮久(後の晴久)によって一時期所領を失うも機を見て復帰し播磨、備前の2国を回復。
ここに至る戦いの中で発言力を強めていった政宗は赤松氏筆頭家老にまで登り詰める。
しかし天文20年(1551)、再び兵を率いて備前侵攻に際して政宗と弟の浦上宗景は真っ向から対立。
政宗播磨国室津に、宗景は備前国天神山に根拠を置いて、以後10年にわたり対立し、浦上氏は大きく分裂することになった。
政宗は播磨守護代として実効支配を行い赤松氏を傀儡としていたが、永禄7年(1564)に赤松政秀に襲撃され滅んだ。
一方弟の宗景は、備前・美作一帯に一大勢力を築いて、また織田信長と誼を通じるなどして、再び家勢を盛り返した。
宗景は、信長には領国の安堵を受けたが、台頭してきた重臣宇喜多直家と不和となり、毛利氏と結んだ直家は浦上久松丸を擁立して天正3年(1575)に宗景を打ち破り播磨国に追放した(天神山城の戦い)。

ここに戦国大名としての浦上氏は実質的には滅亡した。

久松丸はまもなく直家に毒殺され、また宗景は黒田長政を頼り筑前国で没したとされる。



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