岡山の歴史遺産47 備前富山城(びぜんとみやまじょう)

備前富山城
☆所在地:岡山県岡山市北区矢坂東町・矢坂本町
☆アクセス:JR西日本 吉備線大安寺駅
☆概要
岡山市北区矢坂東町・同本町にある、連郭式の中世山城。
別名万成城、大安寺城、矢坂城。

旭川西岸平野の西側にある標高131.6mの矢坂山上に位置し、北側には山陽道が通る交通の要衝となっていた。
また、備前国の西半から備中国にかけてを押さえる意味があり、岡山城備前国の中心となるまでは、旭川両岸平野を支配するための拠点であった。
古代には吉備津彦命山陽道に派遣された際に陣を構えた伝承が残る。

仁和年間(885年〜889年)に富山重興が築城したといわれるが定かではない。
富山氏は今日の矢坂山の頂上部(小字)を富山と称しここに居住して富山姓を名乗ったことに始まると言われる。

応仁元年(1467)富山長頼は松田元隆の攻城を受けて自害し富山氏は滅亡した。
元隆はこの城を改修し居城した。
文明15年(1483)元隆の子元成は居城を金川城に移し、元成の弟親秀が城主となった。
親秀の没後は松田氏の重臣・横井土佐守が居城した。

松田氏は当初、浦上氏との競り合いを続けていた。
やがて浦上宗景の麾下であった宇喜多直家が台頭し、宇喜多氏とも争うようになった。
永禄11年(1568)金川城は直家により落城し金川城主の元賢は討ち取られた。本城の落城と同時に富山城も落城し、金川城に居て身動きが取れずに居たこの時の富山城主である松田元脩(元賢の弟)は金川城からの脱出に成功するものの既に自らの居城は直家の手に落ちており、止む無く備中へと逃げ延びる。

富山城には直家の弟・忠家が城主となり、西の丸・東出丸を築き城を拡張した。
慶長4年(1599)宇喜多家中で内紛が起こると、忠家の子で城主となっていた詮家(後の坂崎直盛)は城を捨て大坂に出奔した。
関ヶ原の戦いで宇喜多氏は西軍主力として戦い敗れたため、備前国には小早川秀秋が入封した。
入封翌年の慶長6年(1601)頃、富山城は廃城となったものと思われる。
なお、岡山城石山門(戦災で焼失)はこの城の大手門を移築したものであると伝えられている。

現在、城址には土塁、石塁、堀切、曲輪跡が確認できる。




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