岡山ゆかりの歴史人物17 平正盛(たいらのまさもり)

平正盛(?〜1121)
父は平正衡、母は不詳。平清盛の祖父にあたる。
平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士

平維衡を祖とする伊勢平氏伊勢国に地盤を持った武士で、中央では検非違使などとして朝廷の武力として活動していたが、さほど目立った存在ではなかった。
永長元年(1096)、隠岐守であった平正盛は、白河法皇の鐘愛の皇女媞子内親王(郁芳門院)を弔う六条院の御堂に伊勢の所領を寄進し、それを期に若狭守に転じ、法皇から目をかけられるようになる。

康和3年(1101)、反乱を起こした源義親を討つ命令が彼の父源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に源義親討伐の命令が下る。
しかし、義忠は兄を討てないと躊躇したため、正盛が義忠に代わり討伐に向かい、嘉祥3年(1108)に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。
その功績により但馬守に叙任。
後、天永元年(1110)丹後守、永久元年(1113)備前守を勤めた。
ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明。この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。
当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて疑問があったことは藤原宗忠の日記『中右記』などにも記されている。
保安元年(1120年)讃岐守。

平家物語』の平家滅亡時に現れる平六代は、彼より数えて6代目であることに由来する幼名である。
平家は彼の子、平忠盛の時代に飛躍的に勢力を拡大し全盛期を現出させる。
その地盤固めをしたのが正盛の時代の平家であり、平家興隆の基礎を築いた人
物と評価される。





備前守を務めた事があるという理由で今回は平清盛の祖父である正盛を取り上げてみました。
平正盛源義親を討伐した事で、名をあげましたが、当時からヤラセではないかという説があったようです。
実際、その後20年間も「源義親」を名乗る人物が現れているので、確かに疑わしいですが…。





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