岡山の歴史遺産35 天神山城

天神山城
☆所在地:岡山県和気郡和気町田土
☆アクセス:JR山陽本線 和気駅から徒歩1時間(川本登山口)
☆概要
天文23年(1554)に戦国大名浦上宗景が築いた連郭式の山城。
天神山は和気町の市街地から国道374号を北上した国道沿いの天神山西(390m)の山上に位置する。
標高390mの西峰の山頂に本の丸が配され、北西に向かって山上伝いに二の丸、三の丸が配されていた。
また、本の丸の南東側に向かって馬屋の段、南の段等の曲輪、深くV字型に切れ込んだ堀切が確認出来る。
さらに堀切を南東に進むと天神山東峰(409m)に入り2つの石門を経てその山頂には周囲を見晴らせる太鼓の丸、太鼓の丸への侵入経路として北東方面から伸びる虎口があり、より南東にも雑な作りではあるが堀切や土塁線の遺構が残る。天神山城北西の「下の段」の遺構から太鼓丸南東の土塁線の遺構まで実に1km超に及ぶ大規模な城郭である。
現在は曲輪、土塁、石垣、空堀、侍屋敷跡などの遺構が見られる。

享禄4年(1531)、浦上宗景は大田原・日笠・延原・明石・岡本・服部ら6人の部将を連れ室津城(播州)を立ち太鼓丸城に移る。(天神山城完成後は東の砦となる。)
天文元年(1532)、浦上政宗は、その弟浦上宗景を討つべく富田松山城備前市)に布陣する。
宗景も太鼓丸城より人数を出し片上の葛坂に出陣したが、戦意を喪失し相互に軍を引き上げる。

天文20年(1551)、浦上政宗と宗景は備前に侵攻してきた尼子晴久の対応について恭順の意を示そうとする政宗方と撃退するべしという意見の宗景は激しく対立。
政宗は尼子と同盟を結び、それに対抗すべく宗景は安芸の毛利元就と同盟し周辺国衆にも政宗方に属する者、宗景方に属する者がそれぞれ現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。
その際に宗景は自らの新たな拠点として天神山に城を築く。(普請に取りかかったのは天文23年(1554)正月前後)
これが長らく宗景が居城とする天神山城である。

ここを拠点とした宗景は毛利の助力を得て各地で勝利を収め政宗の勢力を駆逐し備前の支配権を握る。
また、宗景はかつて浦上被官であった宇喜多能家の孫で放浪の身であった直家を召し抱えた。
有能な直家は頭角を現し宗景の片腕となって活躍し、その助力もあり宗景の備前・美作地域の支配は次第に強固なものになっていった。

永禄7年(1564)、兄の政宗室津城において、二男清宗の婚礼の当日、赤松政秀の攻撃に遭い父子ともに戦死。
跡は政宗の三男の浦上誠宗が継いだが、3年後の永禄10年(1567)に宗景の手の者によって暗殺され室津の浦上惣領家は滅び、その領地を接収してさらに勢力を強めた。

天正元年(1573)、宗景は西国に勢力を伸長してきた織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を認められた。
しかし、次第に家中での勢力を拡大していた宇喜多直家は、これに反対し安芸の毛利氏と結んだ。

天正2年(1574)、直家は遂に主君宗景に反旗を翻した。
浦上政宗の三男誠宗の子で直家が岡山城に庇護していた浦上久松丸を奉じ、浦上宗家復興を名目に天神山城の宗景を攻めた。

天正3年(1575)、家中で直家に内応するものもあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へ遁走した。
その後、直家はこの城を焼き払ったと伝えられ、天神山城は廃城となった。
とされていたが近年、本城から出土した瓦が天正8年(1580年)ごろ姫路で焼かれたものと酷似しているという事で「落城後もしばらく宇喜多直家が使っていたのでは無いか?」という説も浮上している。



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