歴史小話2 神になった怨霊たち〜御霊信仰〜(下)

八所御霊の残りの人々を取り上げたいと思います。
ただ、吉備真備は以前すでに記事に載せたので割愛させて頂きます…。


橘逸勢(たちばなのはやなり、782〜842)
橘入居 の末子。母は不詳。
嵯峨天皇皇后橘嘉智子はいとこにあたる。
嵯峨上皇崩御後の承和9年(842)8月17日、橘逸勢は皇太子恒貞親王淳和天皇の第2皇子、母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)の東国移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、伴健岑とともに逮捕された。
両者は杖で打たれ続ける拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。
しかし、仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、健岑は隠岐(後に出雲国に移される)に、逸勢は伊豆へ配流。
恒貞親王は皇太子を廃された(承和の変)。
逸勢は伊豆への護送途中に、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した。


文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ、生没年不詳)
備前守三諸大原の6男。母は不詳。
承和6年(839)、従五位上に叙せられ、翌年には筑前守に任じられる。
しかし承和9年(842)には解任されていた。
そして承和10年(843)、散位従五位上のとき謀反の罪により伊豆国へ配流となった。
後に無実であることがわかり、貞観5年(863)に神泉苑の御霊会で慰霊されている。


菅原道真(すがわらのみちざね、845〜903)
菅原是善(すがわらのこれよし)の子。母は伴氏。
宇多天皇に重用され昇進し、寛平7年(895)には長女衍子を宇多天皇の女御とした。
また寛平9年(897)には娘を宇多天皇の皇子斉世親王の妃に入れた。
同年、宇多天皇醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、昌泰2年(899)には右大臣、延喜元年(901)には従二位に叙されるなど、順調に昇進を重ねていた。
しかし同年1月に、斉世親王皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。
宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人が流刑に処された。
延喜3年(903)2月25日、道真は大宰府薨去し、同地に葬られる。

菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。
まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909)に39歳の若さで病死。
次に醍醐天皇の皇子で東宮保明親王(時平の甥)が延喜23年(923)薨去薨去
次いでその保明親王の王子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が延長3年(925)が卒去するなど、時平の血を引く者が次々に病死する。
さらには延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真の大宰府左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た。
これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられるようになる。


吉備真備以外の人々は、みんな政争に敗れ、無念の死を遂げています。
おそらく当時から策略ではめられたことはある程度知られていて、その後ろめたさから怨霊として祀るようになったのかなと感じられました。
確かに、死後次々と怪異現象が起きたら現在でもかなり怖いですよね…。
ところで、何で吉備真備が八所御霊としてこの面々に混じって祀られているのでしょうか。
一番の謎です。




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