岡山ゆかりの歴史人物7 清水宗治(しみず むねはる)

             
清水宗治(1537〜1582)
清水宗則の子。母は不詳。
天文6年(1537)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる。
天正の備中兵乱の際、備中を支配していた戦国大名三村氏の譜代の家臣であった石川久智の娘婿でありながら毛利氏に加担したことから、高松城主の地位を得たとされる。
毛利氏の家臣となった以後は、小早川隆景の配下として毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。
天正10年(1582)、天下統一を進める織田信長の家臣羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する。
秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じなかった。
そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれる。
この水攻めの最中の6月に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は宗治の切腹を条件に城兵を助命する講和を呼びかけ、宗治は信長の死を知らぬまま、その数日後に兄の月清らとともに水上で切腹した。享年45歳。
秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところであったが、「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれている。
また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。
墓所山口県光市の清鏡寺にある。


時世の句
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して




高松城の水攻め&清水宗治は、よくてTVのドラマに取り上げられていますね。
実際、高松城跡にいってみるとのどかな風景なので、ここで400年以上前とはいえ、歴史上有名な合戦が行われたとは信じられません(・_・;)



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