岡山の歴史遺産14 備中高松城跡

備中高松城
☆所在地:岡山県岡山市北区高松558―2
☆アクセス: JR吉備線備中高松駅下車、徒歩10分。
☆歴史: 築城時期は不明。
備中松山城主である三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城。
天正3年(1575)5月、備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに小早川隆景毛利元就の3男)に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった。
清水宗治は備中兵乱の際、石川氏の娘婿重臣でありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、清水宗治が城主となった経緯は不詳である。
天正10年(1582)織田信長の家臣羽柴秀吉は中国攻めを任され、4月に高松城攻めにかかった。
しかし高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となる。
5月8日、軍師黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえるものが開始された。
堰堤により低湿地にあった高松城を水没させようとしたのである。
人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没した。
秀吉は信長を備中松山に招く準備をしていたが、6月2日本能寺の変が起こり計画は頓挫する。
翌日、明智光秀の毛利軍への密使を秀吉軍が拘束。
密書で信長の死を知った秀吉軍は毛利軍に知られぬよう密使を暗殺してこれを秘匿し毛利方の外交官安国寺恵瓊を仲介役に和議を成立させた。
城兵の命と引き替えに6月4日宗治は切腹
秀吉は明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返した。
高松城落城の後、宇喜多氏の家老花房氏が入城する。
その後関ヶ原の戦いで花房氏は主家の宇喜多氏に反し東軍に付いたため江戸時代には旗本に取り立てられた。
数年はここに陣屋を構えたが備中国阿曽(今の総社市阿曽)に移ったため高松城は廃城となった。
現在は秀吉が築いた堰堤が僅かに残るのみで、城の痕跡は残っていない。
城跡には宗治自刃の碑、宗治首塚・胴塚があり、また公園として整備され、資料館が開館している。
堰堤跡は高松城水攻め史跡公園として整備され、発掘調査により土杭等が確認されている。
城跡と堰堤跡は「高松城跡 附:水攻築堤跡」の名称で国の史跡に指定されている。



先日、備中高松城址に行きました。
昨今の戦国ブームのおかげか、わりと多くの観光客が来ていました。
しかし、本当に見事なまで何も残っていませんでした。
池に蓮が沢山自生していて奇麗でしたが…。



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