岡山の歴史4 足守藩主木下家

足守藩主木下家
足守藩木下家は、始め杉原氏と称していた。
織田信長の家臣であった杉原家定(きのした いえさだ)の妹のねねが木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)に嫁ぎ、その後秀吉が関白となった事から、ねねの実家である杉原氏が秀吉の一族として木下姓を名乗る事を許された。
古くから秀吉に仕えていたために重用され、播磨姫路城主2万5千石に任ぜられ、豊臣姓を下賜された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、東軍・西軍のどちらにも属さず中立を保ち、妹の高台院(ねね)の警護を務めた功績を徳川家康に賞賛され、戦後の慶長6年(1601)3月27日、同じ石高で備中足守に所領替となった。
慶長13年(1608)、家定死去により幕府が遺領を子の勝俊・利房に分与。
勝俊がこれを独占したことを理由に、慶長14年(1609)藩領を没収。
その後慶長15年(1610)、浅野長政の二男長晟が2万4千石で入封する。
しかし、慶長18年(1613年)に、兄幸長の死去に伴い紀伊国紀州藩(37万6千石)を相続し転出。天領となる。
元和元年(1615)、木下利房が大坂の陣の功績により2万5千石にて入封。
以後、明治維新まで木下家が12代・256年間足守の地を治める事になる。


歴代藩主
●木下家 外様 2万5千石 (1601〜 1609)
 1.家定(いえさだ)
 2.勝俊(かつとし)、利房(としふさ)

●浅野家 外様 2万4千石 (1610〜 1613)
 1.長晟(ながあきら)

天領 (1613〜1614)


●木下家 再封 2万5千石 (1615〜1871 )
 2. 利房(としふさ)
 3. 利當(としまさ)
 4. 利貞(としさだ)
 5. 公定(きんさだ)(きん)は正確には「八」の下に「白」
 6. 利潔(としきよ)
 7. 利忠(としただ)
 8. 利彪(としとら)
 9. 利徽(としよし)
 10.利徳(としのり)
 11.利愛(としちか)
 12.利恭(としゆき)

初めて足守を訪れた時、ねねの兄が岡山の藩主だった事を知ってかなりびっくりしましたっ!(中学生の時です)
秀吉を扱うドラマや映画では木下家定はあまり大きく取り扱われていないような気がしますが…。
紆余曲折を経て、明治維新まで存続し、維新後は子爵になっているとは意外でした。


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