岡山ゆかりの歴史人物8 緒方洪庵(おがた こうあん)

              
緒方洪庵(1810〜1863)
足守藩下級藩士佐伯惟因の3男。母は不詳。
文化7年(1810)、 備中国足守藩下級藩士佐伯瀬左衛門惟因の3男として足守(現在の岡山県岡山市北区足守)に誕生。
文政8年(1825)、 父の惟因が大坂蔵屋敷留守居役となったため、父と共に大坂に出る。
文政9年(1826)、 中天游(なか てんゆう)の私塾「思々斎塾」に入門。緒方三平と改称し、4年間蘭学を学ぶ。
天保2年(1831)、 江戸に下り坪井信道(つぼい しんどう)のもとで学び、さらに宇田川玄真(うだがわ げんしん)にも学んだ。
天保7年(1836)、 長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から緒方洪庵と名乗る。
天保9年(1838)春、 大坂に帰り、瓦町(現在の大阪市中央区瓦町)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。
同年、天游門下の先輩であった億川百記の娘八重と結婚。のち6男7女をもうける。
弘化2年(1845)、 過書町(現在の大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入し適塾を移転。(門下生の数が増えたため)
嘉永2年(1849)11月7日、その6日前に京に赴き種痘を得、古手町(現在の大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。
嘉永3年(1850) 郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。
安政5年(1858)4月24日、 洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認する。
文久2年(1862)、 幕府の要請により奥医師兼西洋医学所頭取となる。
同年12月26日、「法眼」に叙せられる。
文久3年(1863)6月11日、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去。54歳。


洪庵の適塾からは、福澤諭吉大鳥圭介橋本左内大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人物を輩出している。



先日、訪れた足守の地で、恥ずかしながら緒方洪庵が岡山出身という事実を知りました。
てっきり大阪の人かと…。
緒方洪庵の誕生の地」というのぼりを見て、「え、え〜っ!」と驚きました(・。・;
どうでもいいのですが、先日戸籍上生存扱いになっていた長崎県壱岐市の男性は緒方洪庵と同じ年なんですね。
ビックリしました(笑)。ちなみにショパンとも同じ年…。


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