岡山の歴史5 勝山城(かつやまじょう)


勝山城
美作国真島郡勝山(現在の岡山県真庭市勝山)にあった城。別名高田城。
延元元年/建武3年(1336)、関東地方の名族三浦氏の当主三浦高継は足利尊氏より美作国にある新田義貞勢を討伐するよう命じられた。
湊川の戦いで高継は楠木正成と戦っておりこの頃に勝山城の前身である高田城が築かれたと言われている。
延元5年(1340)、三浦貞宗が美作真島郡の地頭に任ぜられる。
貞宗は着任と同時に今川了俊の縄張りにより現在の勝山の2つの丘陵に築城したと伝えられている。
天文13年(1544)、当主貞久は尼子晴久麾下の宇山久信に攻められたがこれを撃退している。
天文17年(1548)、貞久が死去し11歳の貞勝が当主となると、この機に乗じ宇山久信が再び攻め入り落城する。
しかし、永禄2年(1559)、貞勝は尼子氏が毛利元就に攻められている隙を衝いて高田城を奪還した。
永禄年間には弱体化した尼子氏に代わって毛利氏が中国地方に台頭した。
永禄8年(1565)、毛利氏の麾下となった備中松山城主三村家親が高田城を攻め、1ヶ月の攻城戦ののち落城し貞勝は自害する。
この時、貞勝の妻でのちに円融院と称する女性が子の桃寿丸を伴って備前国へ落ち延びた。
円融院は後に宇喜多直家の妻となり秀家を生んでいる。
永禄9年(1566)、宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、三浦家臣団は貞久の末弟貞盛を擁立して高田城を奪還する。
しかし永禄12年(1569)、再び毛利軍に攻められ落城、貞盛も討ち死する。
三浦氏による高田城奪還戦はこの後も続き、貞勝の弟貞広を大将に城を攻め続けた。
当初、宇喜多氏の援助によって攻城を行っていたが、そのうち宇喜多氏が諦めて兵を引き、代わって尼子氏遺臣山中幸盛の援軍により元亀元年(1570)三度目の高田城奪還に成功。
奪還に成功したとはいえ、この地は毛利氏・宇喜多氏の2大勢力に挟まれ絶えず双方より侵攻される非常に不安定な地位にあった。
天正3年(1575)、宇喜多氏が城主三浦貞広に毛利氏との和睦を説得し、遂に城は毛利氏に明け渡された。
なお、円融院とともに宇喜多氏の庇護を受けていた貞勝の遺児桃寿丸は天正12年(1584)、京都で地震に遭い死去。これにより美作三浦氏の血統は断絶する。
その後、毛利氏の支配下にあり楢崎元兼が城主となる。
天正12年(1584)、備前・美作は宇喜多秀家の所領となり牧氏が城代となった。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで秀家が敗れると備前・美作には小早川秀秋が入封し高田城にも城代が置かれた。
慶長8年(1603)からは森忠政津山城主となると、勝山も津山藩領となり高田城には各務氏・大塚氏が城番として入った。
元禄10年(1697)森氏が改易となると勝山は天領となり廃城となる。
明和元年(1764)、三河国西尾城より譜代大名の三浦明次が2万3千石をもって真島郡を領し勝山藩が成立した。
なお、新藩主となった三浦氏はかつての城主三浦氏とは祖先を同じくする。
明次は幕府より4千両の城修築費援助を受けて、かつての高田城の西山麓を中心に御殿などの整備が行なわれ勝山城と名付けられた。
修築された勝山城は二ノ丸に二重櫓が上がり、三ノ丸には御殿があった。
以後、明治維新まで三浦氏の居城となった。
明治4年(1871)、廃藩置県により廃城となる。





鎌倉幕府御家人であった三浦一族の末裔が、戦国大名として岡山にいたとは意外でした。
三浦氏の嫡流は宝治元年(1247)の宝治合戦で、鎌倉幕府執権の北条氏の手により滅亡させられたので…。
勝山城は当時を偲ばせるものが何も残っておりません。江戸時代の建物すら。
近年発掘調査が行われ、少しずつその全貌が明らかになっています。




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