岡山ゆかりの歴史人物11 円融院(えんゆういん)

円融院(1549〜?)
三浦桃寿丸、宇喜多秀家吉川広家妻(容光院)らの母。
三浦貞勝、宇喜多直家に嫁ぎ、一説に豊臣秀吉とは側室的な存在であったとされるが、定かではない。

名前
確かな史料には尊称としての「大方殿」、院号の「円融院」が知られる。
実名については従来「お鮮」「お福(ふく)」「太万」など諸説がある。
お鮮
「法鮮」銘五輪塔法名からの連想。
円融院は文禄3年(1594)に没し、法鮮尼と呼ばれたとの説が広く普及している。
これは「法鮮」銘五輪塔岡山市徳吉町)や某寺の過去帳に法鮮を「宇喜多氏御前」とすることに基づくものである。
しかし、円融院が慶長5年以降も生存していることは、自筆書状(焼失、備前難波文書)からも以前から明らかになっている。
同塔を生前の逆修墓とする見解もあるが、これも当時のイエズス会士の書簡によると、この頃宇喜多左京亮の室が岡山で病死したとあり、時期や「宇喜多氏御前」との名義から、この人物に比定するのが妥当との見解が近年出されるに至っている。

太万
貴人の母の尊称である「大方」の誤記から生じたものと考えられる。

お福(ふく)
文禄2年(1593)、朝鮮へ出陣中であった宇喜多秀家の釜山帰陣を報じた豊臣秀吉書状(葉上文書)の宛名が「ふく」であることを根拠とするようであるが、宛名がただ「ふく」とのみあることは、書札礼法上からみて秀家の母とするには不審であるとの指摘がなされており、今のところ実名は不明とするほかない。
号とされている「備前殿」の称も不確かである。

生年
吉田兼見の日記「兼見卿記」の記事から天文18年(1549)にほぼ確定。

出自
三浦氏や鷹取氏、船津氏など諸説あり不明。

経歴
永禄2年(1559)頃、美作高田城主三浦貞勝に嫁いだとされる。
永禄9年(1565)、夫・貞勝が三村家親に攻められ自刃。
その間に生まれた嫡子桃寿丸と共に落ち延びたのち、備前沼城主、宇喜多直家と再婚。
元亀3年(1572)、のちの五大老の一人となる宇喜多秀家を出産した。






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