岡山の歴史8 津山藩(つやまはん)

津山藩
美作国の大半を領有した藩。藩庁は津山城岡山県津山市)に置かれた。

慶長5年(1600)、美作国の殆どが岡山藩小早川秀秋の領地となる。
慶長7年(1602)、秀秋が無嗣子のまま21歳の若さで早世したため、廃藩となる。
慶長8年(1603)、信濃川中島藩より森蘭丸の弟森忠政が18万65006石にて入封し立藩。
この地は従来、鶴山と呼ばれていたが、忠政により津山と改められた。
慶長9年(1604)から津山城の築城に着手し、元和2年(1616年)に完成。
この間に城下町も整備され藩政の基礎が築かれる。
元禄10年(1697)6月20日、4代長成が27歳で死去。
長成には実子がいなかったため、2代長継の第24子で家臣となっていた関衆利を末期養子として迎え、家督を継ぐことになる。
しかし、衆利は家督継承挨拶のため江戸に出府途中の伊勢で発狂。
同年8月2日に幕府は領地を召し上げ、津山藩の森氏は改易となる。
森氏は長継が健在であり、またその子も多数居たため 、長継が備中西江原藩(2万石)、長俊が播磨三日月藩(1万5千石)、関長治が備中新見藩(1万8千石)にてそれぞれ立藩した。
代わって元禄11年(1698)、結城秀康を祖とする越前松平家の松平長矩(のち宣富)が10万石で入封。
廃藩置県まで松平氏が治めるところとなる。
享保6年(1721)、宣富の死去により宣富の嫡男浅五朗が家督を継ぐが、享保11年(1726)に僅か11歳で夭折。
徳川家康の次男の家柄であるため、宣富の弟で白河新田藩主松平知清の3男長煕を迎え家督を相続させた。
ただし、知行は半減の5万石となる。
その後、8代藩主に11代将軍家斉の子斉民を養子として迎え、石高も10万石に戻る。
松平氏の藩政時代は政情が不安定であった。
入封の年には元禄一揆(高倉騒動)、享保11年には山中一揆、幕末には改政一揆と農民一揆が頻発した。
明治4年(1871)廃藩置県により津山県となる。
北条県を経て岡山県編入された。


歴代藩主
森家 外様 18万6500石 (1603年〜1697年)
1.忠政(ただまさ)
2.長継(ながつぐ)
3.長武(ながたけ)
4.長成(ながなり)
5.衆利(あつとし)


松平(越前)家 親藩 10万石→5万石→10万石 (1698年〜1871年
1.宣富(のぶとみ)
2.浅五郎(あさごろう)
3.長熙(ながひろ) 5万石に減知
4.長孝(ながたか)
5.康哉(やすちか)
6.康乂(やすはる)
7.斉孝(なりたか)
8.斉民(なりたみ) ※10万石に加増
9.慶倫(よしとも)



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