岡山ゆかりの歴史人物12 森忠政(もり ただまさ) 前編

森忠政(1570〜1634)
森可成の6男。母は林通安の娘えい(後の妙向禅尼)。幼名は仙千代。森成利(蘭丸)の弟。
誕生と同年に父可成が戦死したため、次兄の森長可家督を継ぐ。
石山合戦の和睦の際、母の妙向禅尼が一向宗の信者であったので、織田家本願寺の講和の使者の一人となった。
和睦の締結の時、「森家ゆかりの人間を僧籍に入れる」という事が条件に入ってていたため、仙千代が一時期僧籍に入る。
しかし関成政(森可成の娘婿)の4男竹若丸が代わりに僧籍に入ることになり、仙千代はすぐに還俗する。
天正10年(1582)の春頃、「森長重」を名乗り織田信長に小姓として出仕するが、同僚の梁田河内守にからかわれ、信長の前で梁田の頭を扇子で殴打したのを見咎られ、まだ幼すぎるとして3月には美濃の妙向禅尼のもとに返された。
本能寺の変が起きた時は妙向禅尼と共に近江国安土城に居たが、変の事を知った森家と友好の深い甲賀流忍者の伴惟安の手引きによって妙向禅尼と共に政情不安定な安土から脱出し、甲賀にある惟安の所領に匿われる。
同年9月11日、領地付近の平定を終えた長可によって迎えの使者が出され、伊勢で引渡しが行われ妙向禅尼ともども金山へと帰った。

天正12年(1584)4月9日、長可が小牧・長久手の戦いで戦死。
この時点で既に他の兄たちは全て早世しており、森家の世継ぎは仙千代のみであった。
長可戦死後、遺言状が羽柴秀吉に提出されたが長可は遺言書で仙千代への家督相続について「あとつぎ候事、いやにて候」と書き、更には金山は誰か信頼できる武将に任せて仙千代は秀吉様の元で奉公するようにと指定するなど仙千代の家督相続にかなり否定的であった。
しかし秀吉は自分に味方した武将の領地を没収する訳にはいかないので、遺言のこの一節は無視して、仙千代を金山7万石の跡継ぎとして指名し各務元正、林為忠の両家老を後見役に任命。
森家も金山にそのままとどめ置かれた。
長重は家督を継いでまず、かつて恩の有る伴惟安や息子の伴惟利ら長可の代まで協力者の立場であった甲賀衆に森家への仕官を打診し、正式に召抱えている。
天正13年(1585)、「森一重」と改名。
同年の富山の役に1500の兵を率いて16歳で初陣を果たし、10月6日に従五位下右近丞に叙任。
天正14年(1586)、「森忠重」と改名し秀吉の関白拝賀のため参内。

天正15年(1587)2月6日、従四位下侍従に昇る。
また同時に羽柴姓と桐紋の使用を認められ、以後「羽柴右近大夫忠政」と称す。
同年九州の役には眼病を理由に参陣を見送り、陣代として林為忠(大将)、伴惟利(副将)らを派遣。
天正18年(1590)の小田原の役では自身も出馬し韮山城攻めに参加した。
朝鮮出兵の折には、九州の名護屋城普請奉行を勤め、兵2,000を率いて参陣している(※渡海はせず)。
伏見城普請、京の大仏建造などにも参加した。
慶長3年(1598)、秀吉が死亡すると徳川家康に接近。
慶長4年(1599)に家康と前田利家石田三成との対立によって双方に味方する軍勢が現れ緊張状態となった際には徳川屋敷に参じて3日間詰め、家康より賞詞があった。
慶長5年(1600)、かねてから希望していた信濃国川中島13万7,500石への加増転封の話が纏まる。(→太閤蔵入地約9万石を廃止しての加増転封。)
同年2月、川中島4万石の田丸直昌と相互に入れ替わる形で領替えが行われた。

(後編に続く)





今回は津山藩初代藩主森忠政の事を取り上げてみました。
忠政は有名な森蘭丸の弟っ!というイメージしか持っていなかったのですが、けっこうエピソードが豊富だったので以外な感じがしました。
おかげで、人物編で初めて前編・後編の2部構成に…。
しかし…岡山ゆかりの歴史人物って、○○の兄弟というネタが多いような…。
足守木下家などもそうでしたが…(・_・;)




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