岡山ゆかりの歴史人物12 森忠政(もり ただまさ)後編

森忠政(1570〜1634)
慶長5年(1600)3月、川中島へ入領。
入領後すぐに、兄の長可を裏切った高坂昌元の一門を探し出して磔に架けるなど強硬な姿勢で臨む。
4月頃、石田三成が森家の大坂方参陣を促すべく川中島を訪れ会談が行われた。
忠政は対外的にはまだ豊家の家臣の体をとっていたがこの席で豊臣家批判とも取れる言動を繰り返し破談。
以後は家康支持の立場を明確なものとし、本姓である森姓を再び名乗った。
三成はこの時の忠政の態度に強く憤り、真田昌幸に宛てた書状の上で「忠政との遺恨格別」「秀頼様を騙し領地を掠め取った」などと名指しで批判している。
同年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、7月21日に家康の会津出兵に先立って宇都宮に着陣し合流を待ったが、7月24日に真田昌幸が西軍と通じ上田へと帰国した事を受けて忠政と石川康長両名は真田への抑えとして領国へと帰還するよう命じられている。
離脱後も盛んに家康や徳川秀忠と書状を交わし情報交換を行う。
その後も家康の命で川中島在中であり、9月の第二次上田合戦の際にも出馬はせず、また出馬要請なども無かった事から行った軍事行動は井戸宇右衛門ら少数の軍勢を上田の北にある地蔵峠付近へと派遣するに留まる。
結局、秀忠率いる中山道隊は上田城を落とすことは出来ず先を急ぐことになったが忠政は秀忠の意向で仙石秀久らと共に真田の備えの為に領地に残し置かれた。
忠政は葛尾城代・井戸宇右衛門配下の兵に上田の監視を命じたが、これに対して真田軍は真田信繁が9月18日と23日の2度打って出て、葛尾城に夜討と朝駆けの攻撃を敢行している。
同月中に真田家は降伏・開城したが、徳川軍の入領に対して領民の一揆が起きているが、忠政はこれを速やかに鎮圧しその功を秀忠より賞された。
※戦後の加増はなく領地は据え置かれた。
慶長7年(1602)8月、「右近検地」と呼ばれる信濃4郡全てを対象とした総検地を実施。
この検地により信濃4郡の石高は5万石以上上昇し、結果として領内の領民に多大な増税を課す事になった。
領民は検地のやり直しを求める嘆願などを出したが忠政はこれを無視。
圧政に耐えかねた領民はついに一揆を起こし、これは4郡に波及する大規模な全領一揆となった。
これに対して忠政は一揆を徹底的に殲滅し、捕縛された一揆衆も鳥打峠で数百人単位で磔に架けられ処刑され死者は600人余りに及ぶなど忠政の対応は苛烈なものであった。
また、一揆後も検地のやり直しなどは一切行わなかった。
慶長8年(1603)、小早川秀秋が後継がいないまま21歳で早世し、小早川家が断絶すると、美作一国18万6,500石への加増転封が決定。
川中島藩には松平忠輝が入った。

しかし森家の美作入封に元小早川家臣や元宇喜多家臣の浪人や在地土豪らが反発。
元小早川家臣、難波宗守が首魁となり2680人余りで播磨国因幡国境付近を固め入国を拒否するという事態となった。
この一揆の報告を受けた忠政であったが女子供含む1,000人足らずで信濃を経つと調略に取り掛かり、美作菅党の有元佐政を寝返らせる事に成功。
彼らの案内で美作入国を目指す。この動きに気付いた国人衆は慌てて忠政を討つべく夜襲を敢行したが、忠政を捕捉出来無いどころか、別の夜襲部隊と鉢合わせして同士討ちを始めるなど連携の悪さを露呈し、この隙に忠政一行は美作入国を果たした。
この有元氏は当時は浪人であったが美作菅党と呼ばれる美作の有力土豪の宗家筋に当たる家で、有元佐政は一揆に参加した一族の説得を開始。
これにより一揆軍の瓦解が始まった。

乱後、有元氏や、菅納(菅)氏、福島氏、佐藤氏など早くから従う姿勢を見せた者には地主としての権利の保持や森家への仕官などが認められたが、それ以外の後から降った者たちは士分を剥奪され帰農する事を強制するなど厳しく対応する。

その後、新たな居城の建築場所を巡って以前より関係の悪化していた重臣井戸宇右衛門との対立が表面化。
忠政は同年5月に院庄の工事現場にて名古屋山三郎に井戸の殺害を命じ、宇右衛門の二人の弟も刺客を放ち暗殺し、井戸一族を抹殺した。
この一件により筆頭家老の林為忠を初めとする林一門が森家を出奔するという事態に陥る。
二頭体制の一角であった各務元正も既に亡く、これにより筆頭家老の座には若い各務元峯(元正嫡男)が就く事になった。

慶長9年(1604年)、伴直次を総奉行とし領内の検地を実施。
また、前年の事件により止まっていた城の建築予定地を院庄から鶴山の地に変更。
鶴山から名称を『津山』の地へと改め、城の建築を再開した。
これが津山城である。

慶長13年(1608)、石切場で筆頭家老各務元峯が喧嘩の末に家老の小沢彦八を殺害。
また仲裁に入った細野左兵衛も元峯の家臣によって斬り殺されるという事件が起こる。
この時忠政は参勤交代の為に江戸に居たが、この事件は大塚丹後守の裁量によって家中騒動などの大事には至らなかった。
しかしながら忠政はこの有様に激怒し各務、小沢、細野ら3家老の所領を召し上げた。
その後、しばらくは大塚丹後守がまとめ役となったがその大塚も慶長17年(1612)7月に死去。

こうした事から忠政は新たな家中の抑えとなる人物を探し、徳川幕府旗本となっていた叔父の森可政の津山藩入りを幕府に希望。
幕府もこれを認め忠政は可政に5,000石の所領と執政職の権限、更には可政四男の森可春にも3,000石の所領を与え、可政らの津山入りの際には自ら国境付近まで出迎えに赴くなど厚くもてなした。
以後、家中での不祥事と言えるような出来事は収束する。

慶長19年(1614)、大坂冬の陣では池田忠継ら中国地方の大名と共に行軍し参加。
中之島を経由し今橋付近に陣取った。しかしながら11月27日に小姓数人を引き連れて大坂城に接近するも感づかれ発砲され、軍監の城昌茂が制止して陣に戻されるという事を起こす。
これにより城は軍法に背いたとして森軍に静止命令を出した。
この命令は11月29日の博労淵の戦いの最中にあっても解かれなかった為に森軍は天満川を渡らず傍観に徹した。
翌30日、幕府の上使である水野勝成が前日の戦いでの森軍の有様を叱責しに現れたが忠政は「軍監の命に従ったまで」と説明した。
結局の、水野は眼前で戦いが行われているのにも関わらず静止を解かなかった城の側を罪に問い、城は軍監を罷免(のち改易)され代わりに水野が軍監として忠政と後の戦いに同行している。

翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣にも参戦。森軍は208の首級を挙げ、特に森可春は大坂方の布施屋飛騨守を討つなど活躍した。

慶長21年(1616)、13年の歳月をかけた津山城が完成。
この後、吉井川の堤防工事、経済の振興や道路網の整備、農業用水路の確保など多種多様な政策を計画、実行に移し津山藩の地盤を築き上げ、忠政の代に完遂が成らなかった事業も次代の森長継に引き継がれた。

寛永3年(1626)、嫡男忠広と将軍徳川秀忠養女、亀鶴姫(前田利常娘)が婚姻。
これは将軍家斡旋の婚姻で前田家の縁戚、更には徳川家準一門の座につく権利を得たが、寛永7年(1630)に亀鶴姫が子なく早世したために将軍家との婚姻関係は無くなり、徳川家準一門になる機会を逸した。
寛永10年(1633)には嫡男忠広が家督を継ぐこと無く死亡している。

同年、堀尾忠晴が死亡し堀尾氏が無嗣改易になると後釜として出雲・石見・隠岐の3ヶ国への加増転封の話が浮上。
酒井忠勝より御内証が届けられ、忠政は当初乗り気ではなかったが結局のところこの話を受けた

寛永11年(1634)、死亡した嫡子忠広の後釜として外孫に当たる関家継(後の森長継)を養子縁組して嫡子とし幕府に承認される。
同年7月6日、京の大文字屋宗味の邸宅で夕食をとり、宿所の妙顕寺へ戻る途中に急激に体調が悪化。
強い腹痛と嘔吐感を訴え、治療の甲斐無く7月7日未明に死亡した。
死因は桃に当たっての食中毒であるという。享年65歳。



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