岡山の歴史14 山陽道(さんようどう)中

山陽道
駅路・駅・駅馬・伝馬
駅路は、重要な情報をいち早く中央−地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も6mを超えていた。(※中央に近くなるとさらに広い道幅となり数10mとなった。)
駅には駅舎があり、駅長が一定の戸数から成る駅戸(えきこ)から選ばれ、人馬の継ぎ立て、宿泊・給食を処理した。
駅長の下に、駅戸から徴発された駅子があり、駅馬をひいた。
また駅の維持のために駅田(えきでん)が大路四町、中路三町、小路二町(『養老田令』)給され、駅戸が耕作に当たり、収穫される駅稲が駅便食料や駅馬買替料などにあてられた。
駅子は大体百二、三十人だったと考えられる。
特に旧山陽道沿いの各郡には、駅家郷があり、駅家を維持するために郷を充てていたのが伺える。
なお伝路は、中央から地方への使者を送迎することを目的としており、郡ごとに伝馬が5疋置かれる規定となっていた。
伝路は各地域の拠点である郡家を結んでいたため、地方間の情報伝達も担っていたと考えられている。
道路幅は駅路よりやや狭い6m前後であったようである。

駅馬や伝馬の使用は特定の者に限られていたが、それ以外の官吏の旅行にも拡大され、駅と伝の使用区分が曖昧になった。
規定を守らない不正使用も増大したので、度々指令を出したが効果がなかった。
そのため、駅制に重点を置くため、延暦11年(792)に全国の伝馬を廃止したが、延暦24年(805)には山陽道以外の伝馬を復活している。
律令制度の衰退とともに交通制度は乱れていった。
以後は駅路に沿う郡に伝馬を置くことを原則としたらしい。
大同2年(807)の改制までは、播磨以西の山陽道には51の駅家があり(駅間距離13里程度)、それぞれに25疋の駅馬が置かれていた。
この改制以降は、新任国司の赴任も海路を使うようになるなど駅路の利用は衰微していった。

奈良時代最末期から平安時代初期にかけて、行政改革が精力的に行われたが、駅伝制においても駅家や駅馬、伝馬の削減などが実施され、伝路は次第に駅路へ統合されていくこととなった。
ただし、地域の実情と無関係に設置された駅路は次第に利用されることが少なくなり、従来の伝路を駅路として取り扱うことが多くなった。
これに伴い、従来の駅路は廃絶していき、存続したとしても6m幅に狭められることが多かった。

延喜式』には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。
延喜式』「兵部省諸国駅伝馬」によると、山城国山崎駅から筑前国の久爾駅まで58駅を数えていたことが伺える。
なお奈良時代には、平城京から木津川沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)の楠葉駅を経て淀川対岸の摂津国嶋上郡(現、高槻市島本町)の大原駅を経由する路線であった。
その後平安時代には、平安京から南下して山城国乙訓郡(現、大山崎町長岡京市)の山崎駅から高槻を経て、西へと向かう路線となったようである。





にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村