岡山の歴史14 山陽道(さんようどう)下

山陽道
古代(飛鳥〜平安)
古代の山陽道の場合も原則30里(当時の一里は約540メートルで、30里は約16キロ)ごとに駅家(うまや)を設けていた。
道幅は約6メートルから9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されており、各国の国府を効率良く結んでいた。
本道から外れた美作国へは、播磨国草上駅から西北に分岐した道路(美作路)が伸びていた。 山陽道が重視されたのは外交使節の入京路に当たっていたからで、駅家は瓦葺きで白壁にしていたので、天平元年(729)そのための財政措置が行われた。
実際の古代山陽道の路線趾が、発掘調査において確認された事例は極めて少なく、高槻市郡家(ぐんげ)川西遺跡(幅8m)、岡山県備中国分尼寺跡(幅7メートル)、兵庫県たつの市小犬丸(こいぬまる)遺跡、上郡町落地(おろち)遺跡など数例を数えるのみである。


中世(鎌倉〜室町)
鎌倉時代にかけては、計画的な国家整備道路としての駅路は存在しなくなったものの、陸上の移動交通がまったく廃絶する訳では無く、その後も地域間の連絡路としての機能はある程度保たれることになった。
そして駅家に代わるものとして、宿駅と呼ばれる交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落が発達した。
これらは江戸時代にかけての宿場町として発展したものが多い。
山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされた。
災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。
沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。
この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだす事ができうる。
しかいそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。
さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、旭川を渡り備中へと続く。
備中では小田川沿いの平地が最も妥当な選択であったので、基本的にこの路線は踏襲されている。
そして現在の国道313号線(高梁市井原市:高梁へは美作から、あるいは高梁川沿いを遡る形で連絡が可能)も、いわゆる宿駅が整備され街道として利用されていたようである。
しかし備後では、福山市北部(府中〜駅家付近)と安芸の三原市北西部(高坂・本郷)の経路から、芦田川に沿う形をとり尾道方面を経由する変更が行われている。
また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており府中手前では短絡を緩和し、沿岸部の 海田市を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。
ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。
さらに室町時代後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、城下町形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった。


近世(江戸)
江戸時代には、街道が整備されることになった。
この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。
街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。
江戸時代の道路としての山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関(あかまがせき)に 至る道として再整備されたものである。
幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道脇街道に位置付けられることとなった。
この山陽道を当時は西国街道(または西国往還)と呼ぶこともあり、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。
下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路の一角でもあった。
これらのことは、寛永10年(1633)の幕府巡視使の巡視を契機としたが、寛永12年(1635)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。
なお呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは前述の京都〜西宮間は山崎街道「唐街道・山崎通り」、そして西宮〜下関間を西国街道、大坂〜尼崎〜西宮間は「中国路 ・中国街道」、などと呼称する場合が多いようである。
長州藩は、整備に力を注いだ。
慶安2年(1649)の長州藩が幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30カ所の馬継ぎを設置したことが記されている。




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