岡山の歴史15 吉備氏(きびし)

吉備氏
吉備氏は主として5世紀に繁栄し、吉備を筑紫・出雲・ヤマト・毛野と並ぶ古代の有力地方国家に発展させることに貢献した。
ヤマトの豪族たちと同盟し、日本列島の統一と発展に寄与した。
吉備国内の造山古墳(全国第4位)・作山古墳(全国第9位)などの巨大前方後円墳は、その首長の墓として往時の勢力の大きさを今に伝えている。
しかし、列島統一過程で「中央」となったヤマト政権の中央集権策によって、『日本書紀』の記述によれば雄略朝期に吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、吉備稚姫を母とする星川皇子など数度にわたる「反乱鎮圧」の名目で勢力を削がれた。
また、8世紀の史料によれば、出雲国近江国紀伊国大和国にも吉備部など「吉備」を冠する地名が西日本の広範囲に存在する。

吉備氏の系譜には3種類あり、それぞれその時代の吉備氏の立場を代弁している。
1.別(わけ)号の人名表記に古形を残し、王家との関係も姻戚関係のみで王族出身とは記さず、一族内部も対等の関係であったとし、5世紀までの部族同盟的な関係を伝える。
2.吉備津彦四道将軍の一人として王家系譜に記載された事を前提とし、共通の始祖をその異母弟とした物で 6世紀中頃以降に作成された。
3.7世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した事に対し、上道臣らが対抗して始祖の尊貴性を主張するために作成された。

7世紀以降、吉備氏は上道・三野・賀夜(香屋・賀陽)・苑・下道・笠らの氏族に分派し、姓(かばね)としては臣(おみ)または朝臣(あそみ)を称した。多くは国造や郡司などの在地の有力豪族であったが、中央貴族として立身した者も少なくない。
笠垂は古人大兄皇子の反乱を告発して名を上げ、上道斐太都(ひだつ)は、橘奈良麻呂の乱に功績があった。
下道真備(吉備真備)は唐に留学し、帰国してからはブレーンとして朝政に参画して重用された。
また、臨済宗の開祖栄西吉備津神社社家賀陽氏の出身である。

大和朝廷と吉備氏

景行天皇の妃となった播磨稲日大娘は、ヤマトタケルを生む。
●そのヤマトタケルと共に蝦夷遠征を行った吉備武彦の娘は、ヤマトタケルの妃となる。
●吉備武彦の子の鴨別(かもわけ)は、仲哀天皇熊襲征討に功績があった。
●兄媛は応神天皇の妃、黒媛は仁徳天皇の妃となる。






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