岡山ゆかりの歴史人物20 藤原公季(ふじわらのきんすえ)

藤原公季(956〜1029)
父は右大臣藤原師輔、母は康子内親王醍醐天皇第14皇女)。閑院流の祖。

天暦10年(956)、朱雀・村上両天皇の同母姉康子内親王を母として生まれた。幼名は宮雄君。
生後まもなく母が産褥のため薨去したことから、幼少時は姉の中宮安子に引き取られ宮中で育てられた(時の帝は叔父にあたる村上天皇である)。
公季が皇子顔にふるまったことを当時皇子であった円融天皇が嘆いたという(『大鏡』)。

公季は道長執政下において、伊周失脚後に、その後任として内大臣に就任すると、一条・三条の両朝を通して内大臣の任にあり道長政権を支えた。
一方、娘義子を一条天皇の弘徽殿女御として入内させ後宮対策を進めたが、皇子女が得られず失敗に終わった。
後一条朝には老臣として治安元年(1021)太政大臣に昇進し、死後正一位の極位を贈られた。

晩年の彼が特別に目をかけた嫡孫公成は、生前の官位こそ中納言どまりであったが、死後、娘の茂子(藤原能信養女)が生んだ貞仁親王が即位(白河天皇)し、祖父が成し遂げなかった事業を完成した。
以後、白河天皇を始めとして、院政期には閑院家の女子所生の皇子から多数の天皇(鳥羽・崇徳・後白河)が出たことから、公季の子孫は栄え、摂関流に継ぐ地位を占めた。
藤原冬嗣の邸宅だった閑院殿を伝領し住んだことから、公季には閑院大臣の別称があり、その子孫は閑院(家)流と呼ばれるが、公成の孫(公季の5代孫)にあたる権大納言公実の三子によって分立した三条・西園寺・徳大寺の三清華家を筆頭に、この系統の公家は堂上家で25家を数える。



藤原公季は康保4年(967)に 備前守に任ぜられたので今回、岡山ゆかりの人物として取り上げました。
それ以外特にゆかりはありませんが…。




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