岡山ゆかりの歴史人物21 坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)

坂上苅田麻呂(727〜786)
父は坂上犬養、母は不詳。上田村麻呂の父。

坂上氏は中国の後漢霊帝の流れを汲むという東漢(やまとのあや)氏に繋がる家系で代々弓馬の道をよくする武門の一族として、数朝にわたり宮廷を守護した。

天平宝字年中に授刀衛少尉に任じられる。
天平宝字8年(764)9月、太師(=太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が謀反を起こすという密告があり、9月11日、孝謙上皇仲麻呂派の淳仁天皇中宮院(御所)に少納言山村王を遣わし、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた。
仲麻呂は子の訓儒麻呂(くすまろ)を遣わし玉璽と駅鈴を奪おうとした。
山村王は急報を送り、坂上苅田麻呂は将曹牡鹿嶋足(みちしまのしまたり)とともに勅命を受け馳せかけて、訓儒麻呂を射殺した。
その後、仲麻呂平城京を脱出。
9月18日、仲麻呂近江国で戦いに敗れ、湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、軍士石村石楯に斬られ、その一家も皆殺しにされた。[恵美押勝の乱

この功により苅田麻呂は従四位下勳二等を授かり、大忌寸の姓(カバネ)を賜る。
中衛少将に補任され、甲斐守を兼ねる。
宝亀元年(770)称徳天皇崩御すると、弓削道鏡の姦計を告げて、その排斥に功績があり、正四位下に進み、陸奥鎮守将軍となった。
中衛中将、安芸守、丹波守などの国司を歴任。
天応元年(781)正四位上を授かり、右衛士督となる。
延暦元年(782)正月14日、氷上川継の謀反事件[氷上川継の乱]に連座して参議左大弁大伴家持とともに職を解かれるが、間もなく許され同年5月に復職する。
その後伊予守、備前守国司を歴任。
延暦4年(785)従三位に進み、上表して宿禰の姓(カバネ)を許される。
同年、左京大夫に任じられ、右衛士督と下総守を兼ねた。
延暦5年(786)死去。






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