岡山の歴史24 法然(ほうねん)



法然(1133〜1212)
父は美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使漆間時国(うるまときくに)。母は秦氏君(はたうじのきみ)。

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141)、9歳の時に源内武者貞明の夜討によって父を失う。
その際、父の遺言によってあだ討ちを断念し、菩提寺の院主であった母方の叔父の観覚のもとに引き取られる。
その才に気づいた観覚は当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

天養2年(1145)13歳(異説には15歳)で源光上人に師事。
源空は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147)に同じく比叡山皇円の下で得度。
久安6年(1150)皇円のもとを辞し、比叡山黒谷の叡空に師事した。
「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。

承安5年(1175)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広める。(←浄土宗の立教開宗の年)

文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じる。(大原問答)
建久9年(1198年)、九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著す。

元久元年(1204)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経法要」を法皇ゆかりの寺院「長講堂」(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営む。
同年10月、比叡山の僧徒が専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。
しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下される。

建永2年(1207)2月28日、法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国流罪となる。(※円証(九条兼実)の庇護により、九条家領地の讃岐国に配流地が変更)

讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や香川県満濃町(現在の西念寺)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐中に布教足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。

承元元年(1207)12月、法然に対し赦免の宣旨が下る。
しかし入洛は許されなかったため、摂津の勝尾寺大阪府)で滞在する。
ようやく建暦元年(1211)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京できたものの、2ヵ月後の建暦2年(1212年)1月25日、死去する。享年80。




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