岡山の歴史人物33 赤松義村(あかまつ よしむら)

赤松義村(?〜1521)
父:七条政資(赤松氏の庶流)
母:不詳
養父:赤松政則
養母:洞松院(細川勝元の娘)

室町幕府の播磨・備前・美作の守護大名。赤松氏当主。置塩城城主。
生年は文明2年(1470)・文明4年(1472)・延徳2年(1490)・明応3年(1494)など諸説あり、はっきりしない。

養父(岳父)政則は嘉吉の乱で一時滅亡した赤松氏を再興した中興の英主であるが、男子に恵まれなかったので、義村がその婿養子となって跡を継いだ。
当主就任時はまだ幼少だったため、家老浦上則宗が権勢を振るった。
それに反発した諸将との間で争いが起きるが、当時の幕府管領である細川政元がこれを仲裁している。
則宗や別所則治など政則時代からの有力家臣が世を去った後は、義母洞松院が義村の成人までの後見役を務めた。

京の幕府で政元の死後、前将軍足利義材(義尹、義稙)と現将軍足利義澄との間で権力争いが起きると、赤松家は先代の政則の代より阿波細川家(細川澄元の実家)と縁が深かったためもあり、義澄側の味方をしたが、船岡山合戦で義澄が敗退した後は、将軍に返り咲いた足利義稙(義材、義尹)と和睦する一方で義澄の子亀王丸を引き取って養育したりするなど、中央への影響力を依然として保持した。

成人し親政するようになった義村は重臣浦上村宗・小寺則職の補佐を受ける一
方で、奉行制を導入し大名権力の強化をもくろむものの、権力が制約されることを嫌った村宗達の反発を受け、永正15年(1518)には、村宗は居城の備前三石城に退去してしまう。
これに激怒した義村は永正16年(1519)、則職らとともに軍を率いて備前・美作の村宗の根拠地を攻撃し、一時は優勢になったものの浦上氏を支持する国人達の抵抗や村宗配下の名将宇喜多能家のため敗北を重ね、守護赤松氏の権威は失墜し、逆に播磨への村宗の侵攻を許してしまう。
捕らえられた義村は隠居を余儀なくされ、その後何回か復権を図ったものの果たせず、最後は播磨の室津城に幽閉され、大永元年(1521)9月17日、村宗の手により暗殺された。

家督は遺児の才末丸(のちの赤松晴政)が継ぎ、守護家としての赤松氏の名目上の存続は許されたが、赤松家はこののち衰退の一途をたどることになる。

名水播磨十水を定めたのはこの義村とされる。




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