岡山の歴史人物35 浦上村宗(うらがみ むらむね)

浦上村宗(?〜1531)
父:浦上宗助
母:不詳

備前・美作・播磨の戦国大名
則宗の養嗣子である浦上祐宗の跡を継いで浦上氏の当主になったと見られるものの、家督相続の経緯、時期については永正年間前半の祐宗、村宗の動向を示す史料が少ないため、明らかではない。

そもそも、浦上家中における村宗の立場についても判明していない。
則宗、則景、祐宗らの養子として系図を繋げる文献もあるが、証拠と裏付けられるだけの史料は無い。
それに元々浦上氏の嫡流であった浦上則永の孫に当たるので則宗の子、養子が悉く死んだ後ならば誰の養子にならずとも相続の順が回って来たとしても不思議ではない為、これらの系図の信憑性には疑問が残る。

主家では赤松政則の死後、その養子である赤松義村が幼年であったこともあり、政則後室である洞松院の後見や、浦上氏などの支持を受ける形で、播磨・備前・美作の守護職に就いた。
その後、義村は成長するにつれ、大きく勢力を伸張させた守護代 浦上氏に惧れを抱き、また自立の機会を窺っていた。

永正14年(1517)、政務に参加するようになった義村は、2人の宿老(浦上村宗、小寺則職)と義村の3人の側近(櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親)から構成される新体制を布く。
しかし、この新体制は 「宿老の専横抑制と義村自身の発言力の強化」 を狙う意図が見え透いていたため、村宗は義村に反発するが、さらにもう一人の宿老である則職とも対立してしまう。
これにより則職や3人の側近による讒言で立場を悪くした上に、これを重んじた義村によって、出仕差し止めという仕置きを下されてしまった。

あからさまな赤松氏の権力機構からの排斥行為に怒った村宗は、宇喜多能家などの家臣らと共に備前へと帰り、三石城に籠もって赤松氏への反旗を翻した。

永正16年(1519)冬、自身の更なる権力強化の好機ととらえて征伐軍を動員した義村によって、三石城を包囲された。
しかし、村宗も赤松氏と敵対関係にあった備前の最大国人 松田元陸と密かに結ぶなど対策を講じていた。
結局、後詰めに元陸が現れるとの報も功を奏し、要害の地に築かれた堅守の三石城を攻めあぐねていた義村の撃退に成功した。

しかし翌年の永正17年(1520)に、討伐軍(義村自身の出征ではなく、小寺城主 小寺則職を主将)に再攻される。
この時の討伐軍には浦上氏の本拠への攻撃よりも、浦上派へ転身した美作守護代の中村則久など浦上派の諸城への攻撃を受け、弱体化を図られている。

当初は美作の浦上派諸氏を圧倒する討伐軍(赤松派)の優勢に思われたが、村宗が支援を命じた宇喜多能家の働きにより浦上派の劣勢を払拭。
また、中村則久が籠もる堅牢な岩屋城も頑強な抵抗を示し、200日余りに亘る包囲を受けようとも備蓄十分な岩屋城を落とされなかった。
そこで村宗は専守防衛に務めるどころか、松田元陸と共に本格的な攻勢に転じ、美作へ出征してきた赤松軍の背後を襲撃。
さらに赤松軍へは武力に限らず調略策も駆使し、赤松村景などの懐柔にも成功。
討伐に押し寄せた赤松軍を逆に弱体化させた末に、大将である小寺則職を含む200人余りを討って討伐軍を壊滅。
義村の威信失墜に大きな影響を与えたどころか主従の武力関係すら逆転させた村宗は、その後播磨への反撃侵攻に転じている。
義村への軍事的圧迫にとどまらず、同年11月には嫡子 才松丸を引き渡させた上に、義村を強制隠居にまで追い込んだ村宗は、当時8歳の才松丸を改め赤松政村(後の赤松晴政)に赤松氏の家督を継がせると、自らこの後見人となった。

永正18年(1521)の正月、足利亀王丸を奉じた義村により再挙兵されるも、これを撃破。
亀王丸の確保を目論む村宗は、嘘の和睦の持ちかけに応じた義村を和解の席で捕縛し、播磨の室津に幽閉した。
しかし村宗は非情な決断を下し、元号が大永に変わった同年9月には、刺客を放って幽閉先の義村を暗殺させた。
これにより名実ともに、播磨・備前・美作の支配権を奪って戦国大名への道を歩み始めた。

その頃、亀王丸は管領細川高国に請われて上洛を果たすと、足利義晴として征夷大将軍となっている。
ただし浦上氏の赤松氏に対する下克上は、他家のそれと比較すると比較的穏和なものであり、但馬の山名誠豊からの播磨侵攻を受けた際には、赤松氏との共闘も見せている。
しかし、山名氏の脅威が去った後は、赤松氏との覇権を巡る争いを再開し、浦上村国など一族の有力者と争いつつ、政村を置塩城より追放し、美作国へ追いやったこともある。

力をつけた村宗は、細川晴元との抗争に敗れて京を追われた管領 細川高国からの参戦依頼を受けると、主君 政村と一時和睦した上で上洛の軍を起こし、細川氏家督争いへ介入するようになる。

当初は、晴元派の重鎮である柳本賢治や、東播磨で村宗と対立してきた別所村治を破るなど破竹の勢いで進撃し、高国の再入京を後押しするほど優勢であった。
ところが享禄4年(1531)、晴元たち敵対勢力の中枢である堺公方府への遠征(中嶋の戦い)で手間取り、膠着状態に陥る。
そして同年6月には、大物崩れで晴元や三好元長に敗北しただけでなく、討死してしまう。

なお、この勝敗の帰趨を決したのは、増援であったはずの政祐(政村)に裏切られ、背後から攻撃されたことであった。

村宗の死後、家督は嫡男 虎満丸(後の政宗)に継がれた。





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