岡山の歴史遺産41 百間川遺跡(ひゃっけんがわいせき)

百間川遺跡
百間川は、岡山平野のほぼ中央部を流れる旭川の放水路。
百間川改修工事の際に、中流域の河川敷の下4カ所で集落遺跡が発見され、昭和52年(1977)より発掘調査が行われた。
縄文後期から中世にかけての複合遺跡である。
遺跡名は大字名を冠しており、総称して百間川遺跡と呼ばれる。
弥生時代後期末には、水田がかなり広大に行われていたと推定されている。
また、部分的に稲株跡が見つかっており、株の大きさやその分布状況から「田植え」が行われていたと考えられている。

原尾島遺跡(はらおじまいせき)
原尾島遺跡では、縄文時代後期から室町時代にかけての集落群が発掘された。
主には弥生時代後期から古墳時代にかけての集落、鎌倉時代から室町時代にかけての集落が中心である。

沢田遺跡(さわだいせき)
沢田遺跡は弥生時代前期から古墳時代前期にかけての集落群の遺跡である。特に弥生時代の遺跡は環濠に囲まれていたことが確認されている。
ここで発掘された弥生土器は現在、岡山市埋蔵文化財センターに収蔵されている。

兼基・今谷遺跡 (かねもと・いまだにいせき)
兼基・今谷遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡と鎌倉時代の集落跡の遺跡である。弥生時代の遺跡からは水田跡や掘立柱の建物群が発掘された。

米田遺跡(よねだいせき)
米田遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡と、奈良時代から室町時代にかけての遺跡である。特に奈良時代から室町時代にかけての遺跡では道路や橋脚の跡や、掘立柱の建物群が発掘されている。

笄の井戸 (こうがいのいど)
米田遺跡の下手には「笄の井戸」がある。
百間川遺跡群の南にある操山山塊の最東端部には戦国時代に正木城があり、天正年間(1573 - 1592)城主の正木大膳康正が宇喜多直家に攻められ落城した。
その際、康正の妻玉尾の方は娘の初瀬を抱いてこの井戸に身を投げた。
後年、この2人を供養したところ、井戸より笄と櫛が浮かび上がり、この井戸を「笄の井戸」と呼ぶようになったという伝承が伝わっている。



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