岡山の歴史遺産46 備前金川城(びぜんかながわじょう)

備前金川

☆所在地:岡山県岡山市北区御津金川
☆アクセス:JR津山線金川駅から徒歩約10分(登城口)
☆概要
備前国御野郡金川(現岡山県岡山市北区御津金川)にあった城。
旭川と宇甘川が合流する地点の北西にある標高221mの城山山頂に築かれている。
別名玉松城。
築城時期は不明。
一説には承久3年(1221)の承久の乱後、軍功のあった相模武士団の松田盛朝が備前国御野郷に所領を与えられ、築城したとも云われている。

鎌倉末期、松田十郎盛朝は後醍醐天皇方に与して軍功をあげ、備前守護職に任ぜられる。(『備前一宮文書』)
また『松田系図』によると、相模の松田元国が鎌倉幕府討伐で軍功をあげ、備前国伊福郷を給せられ富山城を本拠とした。
なお、金川松田氏と伊福松田氏の関連性は不明。
応仁の乱松田元隆(伊福松田氏)は東軍の赤松氏に与して山名氏勢力の追い落としの功により、旧領を安堵され赤松氏の被官に組み込まれる。
文明12年(1480)、元隆の嫡子元成の代に松田氏は金川城を改修して富山城から金川城に本拠を移したと伝えられる。
元成は備前西部に勢力を拡大し、備前守護大名赤松氏や守護代浦上氏と対峙した。
文明15年(1483)、元成は赤松方の福岡城を攻め落とし、さらに三石城を攻撃したが、天王原で大敗を喫して自害。

元成の子の元勝、孫の元陸はその後も金川城を拠点に備前西部を支配して赤松氏と対峙。
享禄4年(1531)、享禄の錯乱(細川高国と春国との対立で勃発)に、元陸は将軍義春の命で高国方に参陣するも摂津天王寺で討死。

元陸の死後、松田氏は元盛―元輝と継承するが、永禄年間(1558−1570)中頃から天神山城主浦上宗景の被官宇喜多直家備前西部に勢力を拡大したため、元輝の子の元賢は直家の娘を娶る。

永禄11年(1568)、直家は松田氏の重臣徳倉城主宇垣市朗兵衛兄弟を謀殺し、さらに松田氏の家老虎倉城主伊賀左衛門久隆を内応されて元輝の籠る金川城攻略を開始した。
元輝は宇喜多勢を迎撃するが、伊賀勢が宇喜多勢に内応したため、元輝は討死し金川城は陥落する。

元輝・元賢父子、松田氏の重臣多数がこの戦で討たれたため、松田氏の宗家流は滅亡。
落城が7月7日であったので土地の人々は長い間七夕祭を行わなかったと伝えられている。

松田氏滅亡後、金川城には直家の弟春家が城代として入城。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍に与した宇喜多氏は改易となった。
同8年(1603)、宇喜多氏に代わって備前に入っていた小早川秀秋が嗣子なく死去したため、池田忠継が入封。
金川城代は池田氏重臣日置忠俊が任ぜられる。

その後、一国一城令により廃城。

岡山市役所御津支所の西側に城山があり、現在、石垣、曲輪跡、堀切、井戸(直径8メートル、深さ10.5メートルの井戸は国内でも最大級の規模)の遺構が確認できる




にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村