岡山ゆかりの歴史人物5 妹尾兼康(せのおかねやす)

妹尾兼康(1123〜1183)
保元物語』・『平治物語』・『平家物語』・『源平盛衰記』など平安末期を舞台とする戦記物語に登場する平家の武士。
妹尾兼康の名は『保元物語』に安芸守平清盛に随った兵のなかに見え、『平治物語』にも、平重盛に付き従った侍の中に備前の難波二郎経遠(つねとお)・同三郎経房とともに名前がある。兼康は備中妹尾郷を基盤とし、備前の難波氏らと早く平氏の家人となったと考えられる
また、兼康は岡山県最大の用水「十二ケ郷用水」の開発者として知られている。
兼康は治承4年(1180)、南都で蜂起した僧兵たちの鎮圧を任じられ、鎮圧軍500余騎を率いて奈良へ入ったが、清盛から甲胄の着用、弓箭の所持を禁じられていたため配下の60余人が討たれた。
このことが後に平重衡らによる南都焼き討ちへとつながっている。
寿永2年(1183)4月のの平氏による北陸の反乱追討軍に従うが、倶利伽羅峠の戦い平氏軍は大敗し、兼康は木曾義仲方の武将倉光成澄に捕らえられる。
義仲は兼康の武勇を惜しんで助命し、身柄を成澄の弟倉光成氏に預けた。兼康は義仲に従いながらも、反撃の機会を伺っていた。
同年7月に平家一門は都を落ち、兼康は10月に平家を追討すべく西国へ向かった義仲軍に加わる。
水島の戦いで義仲軍が敗れたのち、兼康は自領である備前国妹尾荘に案内すると成氏を誘い出して殺害。
出迎えた嫡子妹尾宗康や備前・備中・備後三ヶ国で現地に残っていた平家方の武士たちをかき集め、軍勢2000人余をもって福隆寺縄手の笹の迫(ささのせまり)に要塞を構え、義仲軍に反旗を翻した。
しかし成氏の兄倉光三郎成澄を討ち取るなど奮戦したが、義仲軍に要塞を攻め落とされる。
その後、肥満の為自分で身体を動かす事ができない嫡子妹尾宗康を助けるために引き返し、今井兼平の軍勢に突入して備中国板倉宿付近(現・岡山県総社市)で討たれた。
なお『平家物語』では、巻8に「妹尾最期」という一節を設けて兼康の最期を描き、木曽義仲をして「あっぱれ剛の者かな。 是をこそ一人當千の兵ともいふべけれ」と言わしめている。
討ち死にした兼康の遺骸は現在の鯉山(りざん)小学校の辺りに葬られた。
鯉山小学校(岡山市吉備津)には兼康の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、近年校庭から1000点をこえる土器とともに頭蓋骨が出土し、妹尾兼康の首ではないかと話題を集めた。


前回、熊谷直実ゆかりの誕生寺を取り上げたので、今回は平家の忠臣妹尾兼康に注目してみました。
兼康が開発した十二ケ郷用水は江戸初期に整備され、現在は「湛井十二ヶ郷用水」として知られています。
兼康の時代から1000年の時を刻んでもまだその名が残っているとは不思議ですね。




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