岡山の歴史2 藤戸の戦い〜治承・寿永の乱〜

藤戸の戦い
元暦元年(1184)12月7日、備前国児島(岡山県倉敷市)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた合戦。

寿永3年(1184)2月7日、一ノ谷の戦いで敗れた平家は西国へ退く。(平家は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平家の家人であり、瀬戸内海の制海権を握っていたため。)
9月1日、源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かった。
海上戦に長けた平家軍に対し、水軍を持たない追討軍はその確保が課題であった。
9月19日、鎌倉の源頼朝は瀬戸内海の武士団を味方に付けるべく、平家から離反したと思われる讃岐国の家人に対して、西国伊予国の武士橘公業に従い、平家討伐のため鎮西に向かうことを命じている。
また武蔵国御家人豊島有経が紀伊国の守護に任じられ、兵士や兵糧の調達にあたった。
更に10月には梶原景時淡路国で水軍の調査を行い、石見国の有力武士益田兼高を源氏方に付けるなど軍事・政治両面での工作活動を行っている。
しかし源氏軍の水軍確保は進まず、範頼は10月に安芸国まで軍勢を進出させたが、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれ、11月中旬になると範頼から鎌倉の頼朝へ兵糧の欠乏と東国武士たちの士気の低下を訴える手紙が次々送られている。
平行盛は500余騎の兵を率いて備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう)に城郭を構えた。
九州上陸を目指す源氏軍にとって、この山陽道の平家拠点の攻略は必須課題であり、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約500Mの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かう。
吾妻鏡』によると、波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく盛綱らが浜辺に轡を止めていたところ、行盛がしきりに挑発した。
盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま郎従6騎を率いて藤戸の海路3丁余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたという。
平氏軍は讃岐国屋島へと退却した。



前回に引き続き治承・寿永の乱を取り上げてみました。
しかし…私が平家が好きなせいか、終焉に向かいつつある時期を取り上げるのが、なかなかつらくなってきました…(@_@;)



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