岡山の歴史遺産11 備中松山城

備中松山城(通称高梁城)
☆所在地:岡山県高梁市
☆アクセス:JR西日本備中高梁駅より備北バスで10分、松山城登山口下車徒歩約20分。
☆歴史:仁治元年(1240)、秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築く。元弘年間(1331年頃)には、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。
城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代の三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。天正2年(1574)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。松山城は毛利方の小早川隆景により落とされ、元親は自害する。その後、松山城は毛利氏の所有となった。
慶長4年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍の毛利氏が敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次・政一)を置く。この頃、麓に御根小屋が築かれた。
元和3年(1617)には、池田長幸が入城し、6万3千石で立藩する。しかし寛永18年(1641)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。 翌寛永19年(1642)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681)〜 天和3年(1683)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1ヵ月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。
水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老大石良雄が城番となった。元禄8年(1695)、安藤重博が6万5千石で入封するが、正徳元年(1711)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
慶応4年(1868)1月18日、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学山田方谷の決断で無血開城した。

利用案内
4月〜9月:9時〜17時30分
10月〜3月:9時〜16時30分
休城日:12月28日〜1月4日
入城料:大人 300円、小中学生 150円、団体割引あり



数年前に大学の友人と一緒に備中松山城に登りました。
日曜日に行ったのですが、何と高梁駅から松山城までのバスが動いておらず、歩いていくハメに…。
歩くこと1時間、やっと麓のシャトルバスのりばに着きました(・_・;)
駅前での情報では“無料”シャトルバスが出ているとのことでしたが、行ってみると有料でした。
注意1:駅から歩いていく場合は、シャトルバスに乗らなくてもよいかと思います。5分ぐらいしか乗らず、往復で300円程取られるので。
注意2:自家用車で松山城まで行かれる場合、必ずシャトルバスに乗らされるのでご注意をっ!!「混雑が予想されるので車から降りて下さい。」と言われます。全く混んでいませんがっ!
不可解なシャトルバスはあれなんですが、お城自体は日本で一番高い場所に建てられているので、一見の価値はあるかと。野生のサルがいるので、少し危険かもしれませんが…。


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