岡山の歴史3 備中松山藩

備中松山藩
・慶長5年(1600)〜元和2年(1616)までは天領。備中代官小堀氏(小堀正次・政一)が統治していた。
・元和3年(1617)、因幡国鳥取藩6万石より池田長幸が6万5000石で入封し、立藩する。
寛永18年(1641)、第2代藩主長常が後継ぎがないまま死去したため、断絶。
寛永19年(1642)、成羽藩より水谷勝隆が5万石で入封する。(※松山藩の藩政・経済の基礎、松山城の城郭普請は水谷時代にほぼ完成。)
・第3代藩主水谷勝美が後継ぎがいないため、末期養子水谷勝晴をとったが、元禄6年(1693)に遺領を継ぐ前に死去。勝美の弟勝時をたてたが受け入れられず3000石の旗本に減封となる。この際の松山城受け渡しには、忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野長矩が任ぜられている。また長矩の名代として浅野家家老大石内蔵助が次の藩主安藤氏が来るまでの1年半もの間、備中松山城を管理している。城明け渡しにあたって内蔵助は、単身で松山城に入り、水谷家家老鶴見内蔵助と対談に及び、無血開城にこぎつけたという。大石と鶴見の名がたまたま同じ内蔵助であったことから「両内蔵助の対決」として評判になったという。
・元禄8年(1695)の検地の後、上野国高崎藩より安藤重博が6万5千石で入封する。子の安藤信友は寺社奉行に任ぜられ、正徳元年(1711)、美濃国加納藩に転封となる。
・同年、山城国淀藩より石川総慶が6万石にて入封。その後延享元年(1744)に、伊勢国亀山藩に転封となる。同時に亀山藩より板倉勝澄が5万石で入封。
・以後、明治まで板倉氏の所領となる。有名な藩主として幕末に第7代藩主となった勝静が挙げられる。勝静は井伊直弼桜田門外の変で暗殺された翌々年の文久2年(1862)、および徳川慶喜の代に老中首座(筆頭)となった。藩政では山田方谷を起用し藩政改革を成功させた。勝静が幕府の要職にあったことから、鳥羽・伏見の戦いから1週間後には松山藩追討令が朝廷から出され、岡山藩の軍勢が藩主不在の松山城などを接収した。京都にいた勝静は徳川慶喜に従って江戸へ向かい、以後の戊辰戦争では旧幕府方に身を置いて箱館まで転戦した。
・明治2年(1869)、勝静は山田方谷らの説得を受けて降伏して禁錮刑に処せられ、石高も2万石に減封。
・勝弼(第5代藩主勝羿の甥)が藩主となり、藩名も伊予松山藩との混同を避けるために高梁藩と改称された。なお、勝弼が藩主になる前に方谷らが後日の御家騒動回避のために「勝全(勝静の嫡男、勝静が官位を没収された後、当主となっていたが朝廷からは藩主として認められないままに父と行動を共にしていた)が、帰藩したあとは藩主の地位を勝全に譲る」という誓約文を勝弼に書かせていた。だが、勝静が新政府から赦免された後にこの話を聞くと「主君は簡単に改めるものではない、ましてや勝全は朝廷から咎めを受けた身である」として、勝弼や重臣達の前で件の誓約書を破り捨てて重臣達に勝弼への忠誠を誓わせたと言われている(廃藩後、勝弼は男爵となり、明治29年(1896)に49歳で死去)。
・明治4年(1871)、廃藩置県により高梁県となる。



●歴代藩主
小堀(こぼり)家 天領(1600 〜 1616)
・正次(まさつぐ)
・政一(まさかず)


池田家 外様6万5千石(1617 〜 1641)
・長幸(ながよし)
・長常(ながつね)


水谷(みずのや)家 外様5万石(1642 〜1693)
・勝隆(かつたか)
・勝宗(かつむね)
・勝美(かつよし)

安藤家 譜代6万5千石(1695〜1711)
・重博(しげひろ)
・信友(のぶとも)

石川家 譜代6万石(1711〜 1744)
・総慶(ふさよし)

板倉(いたくら)家 譜代5万石(1744〜 1871)
・勝澄(かつずみ)
・勝武(かつたけ)
・勝従(かつより)
・勝政(かつまさ)
・勝羿(かつあき)
・勝職(かつつね)
・勝静(かつきよ)
・勝弼(かつすけ) ※明治2年より2万石に減封


幕領→外様→譜代と藩主が変遷していて、数奇な運命をたどった藩ですね。
それにしても、岡山の片田舎に幕府の老中がいたとは驚きっ!!
しかもその後、幕臣として函館まで行くとは。


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