岡山ゆかりの歴史人物6 板倉勝静(いたくら かつきよ)

            
板倉勝静(1823〜1889)
陸奥白河藩主/伊勢桑名藩主松平定永(松平定信の嫡男)の8男。母は随真院。
備中松山藩の第6代藩主板倉勝職の婿養子となる。
嘉永2年(1849)閏4月6日、勝職が隠居したため、家督を継ぎ第7代藩主となる。
陽明学者の山田方谷(やまだ ほうこく)を抜擢して藩政改革を行って成功を収める。それが評価されて寺社奉行を務めたが、安政の大獄に反対して井伊直弼の怒りを買い、罷免させられた。
安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変で直弼が暗殺されると、文久元年(1861)に寺社奉行へ復帰、翌年には老中に昇格した。
生麦事件の賠償問題などから一時、老中職を罷免させられたが、その後老中に再任。
第15代将軍徳川慶喜の信任が厚く、老中首座兼会計総裁に選任される。
幕政改革に取り組む一方で、大政奉還の実現にも尽力した。
慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が起きると、老中小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となり新政府軍と五稜郭まで戦った。
勝静が信頼を寄せていた山田方谷は、黒船来航後の混乱を見て、既に幕府の滅亡が避けられない事を察し、勝静にはまず松山の領民の事を考えて欲しいと諫言する。
しかし、松平定信の孫に生まれた勝静にとっては徳川宗家を見捨てる事は出来なかった。
勝静が東北地方の幕府軍に参戦しているとの報を得た新政府は、近隣の岡山藩などに対して松山への攻撃を命じた。
留守を守っていた方谷は松山の領民を戦いから救うために松山城を明け渡し、勝静を隠居させる決断をしたのである(同時に方谷も公的生活から引退し、新政府の出仕要請を受けることなく亡くなった)。
方谷の指示を受けた松山藩士が知人のプロイセン商船の船長とともに箱館に向かい、勝静を半ば強引に江戸に連行して、新政府への降伏を迫った。
勝静は既に方谷が養子板倉勝弼を新藩主に迎えて城を明け渡したことを知ると、やむなく降伏する。
赦免後に方谷と勝弼を慰労して、勝弼が自分や藩士達に遠慮して家督を板倉勝全(勝静長男、父とともに新政府によって安中藩に幽閉されていた)に譲ることのないように指示している。
明治9年に上野東照宮の祀官となる。
また、勝弼や三島中洲・川田甕江(いずれも方谷の弟子)の協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の設立を行っている。
明治22年(1889)4月6日に66歳で死去。


岡山県で最も利用されていす中国銀行創始者板倉勝静であったとは意外でしたっ!
…というかちゅうぎん(岡山では中国銀行の事をみんな“ちゅうぎん”と呼んでいます)がそんなに古い歴史があったとはびっくりですっ!!



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