岡山の歴史遺産28 箕作阮甫(みつくり げんぽ)旧宅

箕作阮甫旧宅
☆所在地:岡山県津山市西新町6
☆アクセス:JR津山駅からごんごバス東回りで9分、天神橋下車、徒歩3分
☆公開時間:午前9時30分〜午後4時
☆入館料:無料
☆休館日:月曜日(※祝日の時はその翌日)、12/29〜1/3
☆概要
幕末の蘭学者箕作阮甫が誕生から14歳までの少年期を過ごした生家を復元保存した国指定の史跡。
町医者であった箕作阮甫の旧宅は、江戸時代の姿をとどめていることから国の重要指定史跡となり、再整備され公開されている。


箕作氏
箕作氏は近江源氏佐々木の族といわれ、室町時代六角承禎の父定頼が、近江国箕作城(現在の滋賀県五箇荘町)に住んで箕作を称したのに始まる。
その後箕作氏は、美作国に移り、現在の岡山県英田郡美作町楢原に住む。
医家としての箕作氏は、阮甫の曾祖父貞辨(初代丈庵)からで、西新町に住み開業した。
父貞固(3代丈庵)の代になり、天明2年(1782)10月24日、津山松平藩の「御医師並」に召し出され十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられた。


箕作阮甫(1799〜1863)
寛政11年(1799)9月7日、津山藩医箕作貞固(3代丈庵)の第3子として西新町に生まれる。
文化7年(1810)9月13日、次兄豊順が亡くなった為、家督を継ぐ。(長兄はすでに夭折)《12歳》
文化12年(1815)、藩儒永田敏蔵(桐陰)及び小島廣厚(天楽)に漢籍を学ぶ。《17歳》
文化13年(1816)3月、京都に出て、竹中文輔方に寄宿し、医術を修行する。《18歳》
文政4年(1821)11月24日、津山藩医大村家のとゐと結婚。《21歳》
文政6年(1823)5月、7代藩主松平斉孝に従って江戸の出て、蘭学を志し津山藩(江戸詰)の侍医宇田川玄真の門に入る。《22歳》
※文政11年(1828)、シーボルト事件が起きる。
天保2年(1831)3月、10年間の江戸詰のため妻子を伴い、江戸鍛冶橋の藩邸に移る。《33歳》
天保10年(1839)5月、蛮社の獄が起きる。
天保10年(1839)6月、幕府天文台に出役し、藩書和解御用に携わる。《40歳》
嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ合衆国使節ペリーが浦和に来航。
※同年7月18日、ロシア使節プチャーチンが長崎に来航。
同年10月、ロシア使節応接の川路聖謨筒井政憲随行して長崎に行く。《55歳》
安政3年(1856)4月4日、幕府「藩書調所」の教授職となる。藩書調所が現在の東京大学の前身であることから、阮甫は日本最初の大学教授と称される。《58歳》
安政5年(1858)5月7日、伊東玄朴らと神田お玉が池に「種痘館」を開設。のち東京大学医学部へと発展する。《60歳》
※同年6月19日、日米修好通商条約調印。
文久2年(1862)8月21日、生麦事件が起きる。
同年12月28日、洋学者として始めて幕臣に列せられる。《64歳》
文久3年(1863)6月17日、湯島天神中坂下で没する。《65歳》





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