岡山の歴史9 出雲街道


出雲街道
古代以来、津山盆地は出雲から大和へ鉄を運ぶ交通路の結節点として発達した。
中世の街道は津山南部の種、荒神山の経路が利用され、「元弘の変」で京から隠岐島へ流された後醍醐天皇がたどった道として知られる。
江戸時代になると参勤交代制度が確立し各地の大名領地と江戸を結ぶ街道が整備される。
津山城下でも、慶長9年(1604)の城の普請とともに町づくりも始まり、四方に通じる街道が整備された。
津山城下を起点ちして四方への道は、出雲往来(雲州海道)・伯耆往来(倉吉道)・因州鳥取道(因幡道)・備前道(岡山道)・西大寺道がある。
このほか河辺・田熊などを経て丹波に続く道があった。
慶安4年(1648)、松江藩の援助を受けて津山から土居までの改修が完了し、以後津山・松江・広瀬などの諸藩の参勤交代路となり、松江から姫路までの道が広く、一般的に出雲街道と呼ばれている。
こうして、茶店も置かれ、津山にとって近世を通じての主要街道となる道が、一応できたのである。
この道が更に整備されるのは延宝8年(1680)まで待たなければならない。
この年街道沿いに松並木が植えられ、以後厳重な管理のもとに置かれた。
出雲街道の津山城下から西の出雲までの経路は坪井・久世・勝山・美甘・新庄(以上岡山県)・坂井原・梶尾(根雨)・二部(二歩)・溝口・米子(以上兵庫県)・安来・出雲江・松江(以上島根県)と続き、その先は出雲大社へと通じていた。
東の姫路までの経路は、津山を出て、勝間田・土居(以上岡山県)・佐用・三日月・觜崎・葛西・姫路(以上兵庫県)である。
姫路で山陽道に合流し、大阪・京へと通じていた。





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