岡山ゆかりの歴史人物13 赤松満祐 (あかまつ みつすけ)

赤松満祐(1381〜1441)
室町時代の播磨・美作・備前守護大名。赤松義則の子。母は佐々木道誉女。
2度に渡って侍所頭人(所司)を務め、幕府内の長老格として権勢を振るうが、応永34年(1427年)に前将軍足利義持が満祐の所領である播磨を没収して寵愛する赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとすると、満祐は京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下る。
これに激怒した義持は残る備前・美作両国も奪った上で追討令を出すが、討伐を命じられた一色義貫らが出兵を拒むなど混乱が続く。
翌年に突如持貞と義持側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。
満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免され、3ヶ国の守護職を相続する。
永35年(1428)に前将軍義持が後継者を定めないまま死去すると、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。
籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。
当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた義教だが、長老格の三宝満済、山名時熙の死後から次第に指導力を発揮するようになった。
義教は将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせた。
永享11年(1439)の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼす。
比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。
この頃、幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437)には播磨・美作の所領を没収されるとの噂が流れる。
義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、永享12年(1440)3月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。
同年5月、大和出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺された(大和永享の乱)。
「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居する。
嘉吉元年(1441)4月、持氏の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落(結城合戦)。
捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首される。
これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた弟の大覚寺義昭も島津氏に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。
6月18日、義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電。
23日には吉良持助が出奔している。
6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招き、暗殺した(嘉吉の乱)。
その後は領地の播磨へ逃れて足利直冬足利尊氏庶子、直義の養子)の孫とされる足利義尊を新将軍に奉じて対立するが、幕府方が派遣した細川氏山名持豊(宗全)などに敗北、降伏を拒み、城山城(現・兵庫県たつの市)にて切腹自殺する。
赤松氏はこの乱によって全ての守護職を奪われ没落。
長禄元年(1457)に赤松氏の遺臣が禁闕の変後南朝に奪われた三種の神器のうちの神璽を奪還した事で足利義政時代の赤松政則(義雅の孫)のときに再興を果たしている(長禄の変)。



赤松満祐は、籤引き将軍足利義教を暗殺した人物として有名ですね。
彼は岡山に居住していたわけではないのですが、美作・備前守護大名だったので、ゆかりの人物として今回ピックアップしてみました(・_・;)
室町時代は情勢が不安定で複雑なので、私自身きちんと把握していないのですが、『南総里見八犬伝』が好きなので個人的には興味がある時代です。





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