岡山の歴史10 吉備国(きびのくに)

吉備国
現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがる古代の地方王国。
令制国では備前国備中国備後国美作国にあたる。
古代、吉備国畿内出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。
また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。
吉備国は出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗。
以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。
河内王朝時代(※応神王朝の事。応神天皇の血統である仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の天皇の御代を指す。応神王朝は天皇の宮と御陵が河内に多いことから河内王朝ともよばれている。古代日本は三輪王朝《=崇神王朝》、河内王朝《=応神王朝》、近江王朝《=継体王朝》と3るの王朝が存在していたと考えられている。)は、ヤマト王権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、ヤマト政権の謀略などで勢力が削減されていった。
5世紀にヤマト王権内で権力を掌握した大泊瀬幼武大王(諱名:雄略天皇)は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。
吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけ、さらに雄略の死の直後の吉備稚媛(雄略妃)と星川稚宮皇子(雄略の息子)の乱(479年)でまたしても吉備国の勢力を削減させている。
6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られた。
吉備国弥生時代からの塩の生産地であり、さらに6世紀後半には鉄生産が開始された。
造山古墳、作山古墳は築造当時の日本列島で最大級、現存する日本の古墳のうちでも第4位及び9位の規模をもち、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものである。

これら古墳の前にあたる前方後円墳時代の吉備国と、後にあたる7世紀の吉備地方には、複数の豪族が並び立っていたと考えられている。
造山古墳・作山古墳を統一的な吉備政権の存在の証とする説と、この時代にも複数の有力豪族の連合政権であったとする説がある。
『国造本紀』によれば、吉備地方には吉備氏のもとに大伯氏、上道氏、三野氏、下道氏、加夜氏(賀陽氏、賀夜氏、香屋氏)、笠臣氏、小田氏があった。吉備の国造の場合、多く(上道・三野・下道・加夜・笠)が臣(オミ)姓を称している。
この中の下道氏と笠氏は、後に朝臣の姓(かばね)を名乗る(吉備朝臣)。
なお、聖武孝謙(称徳)朝で活躍した吉備真備は下道氏の出身である。
分国は、持統天皇3年(689)の飛鳥浄御原令の発布をもって備前国備中国備後国に分割、それから遅れること二十数年後の和銅6年(713)に美作国を分立させた。
吉備国守、吉備大宰、吉備総領は、日本書紀風土記続日本紀に散見される官職で、吉備国分割の前後に設置されたらしい。
職掌、管轄範囲、存続期間は伝わらない。
大宰府の前身とおぼしき筑紫大宰とともに、中央から派遣され、管下の複数の国の外交と軍事を統括する任務を負ったものと推測される。
史料に見える最後は、文武天皇4年(700)の吉備総領任命記事である。
遅くとも大宝律令制定までに廃止された。





最近ずっと近世の岡山の歴史を取り上げていたので、趣向を変えて今回は古代吉備国について取り上げてみました♪
もともと古代史が好きなので楽しいですねっ。
ただ、これぐらい古い時代になると文字史料が乏しいので、なかなか時代背景の構築が難しいというジレンマがあります(・_・;)
特に地方国家は分かり難いですね。
わからない所がまたこの時代の魅力でもありますが…。




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