岡山の歴史11 備前国(びぜんのくに)

備前国

現在の岡山県の東南部に香川県小豆郡直島諸島兵庫県赤穂市の一部(福浦)を加えた地域。

平地に恵まれ、治水や水運に手頃な大きさの川が多かったので、古代から農業の適地であった。
古墳時代からの鉄産地であり、塩田作りも古い。
瀬戸内海に面した海上交通の便のおかげで、経済的にも豊かであった。
延喜式』での格は上国(上から2番目の位の国)、近国(畿内に近い位置にある国)。
7世紀後半、吉備国備前国備中国備後国に分割されて成立された。
分割後の一時期、吉備道に属す一国だったと推定する説もある。
この時の備前国は、後の美作国の領域と、連島(児嶋郡都羅郷)、小豆島、直島諸島北部を含んでいた。
和銅6年(713)4月3日、北部の6郡を割いて美作国が設けられた。
平安時代から鎌倉時代には荘園が数多く設けられた。
平安時代から、優れた刀工が集まり、長船派一文字派など様々な流派が鍛えた刀は、備前物と呼ばれて重んじられた。
平安時代から始まって後々まで全国に流通した商品に、備前焼がある。
当時の備前の中心となった町は、福岡であった。
室町時代には播磨国を本拠とする赤松氏を守護にいただくようになった。
赤松氏の力が衰えると、山名氏の勢力が伸び、両者の戦いの中でしだいに国人層が成長した。
戦国時代には守護代の浦上氏が主家の赤松氏の勢力を締め出して備前国を支配しようとするも、山陰で大大名となっていた尼子晴久が美作から南下の動きを見せ、備前西部に力を持つ松田氏が尼子方に付くなど苦戦している。しかし、尼子氏が衰退すると戦国時代末期には浦上氏の家臣宇喜多直家が主家を凌駕する力をつけ、ついには浦上氏を追い出して、備前国美作国備中国の一部も加えた戦国大名となった。
これ以後、直家が居城にした岡山が備前国の中心になった。
直家の死後、後を継いだ宇喜多秀家関ヶ原の戦いで敗れたため、宇喜多氏の領国はなくなった(秀家の従兄弟宇喜多詮家が石見国津和野3万石を与えられた)。
秀家の後に岡山城に入った小早川秀秋が後嗣を持たずになくなると、幕府は備前国池田輝政の次男忠継に与えた。
後に岡山には池田の本家が入り、岡山藩は幕末まで備前国一円と周辺を領国とした。
江戸時代の備前では綿の作付けが広がった。
以前から進んでいた児島と本州本土との間の海の干拓は、江戸時代にいっそう進み、児島と本土が地続きになった。



中世以降、小豆郡直島諸島北部は讃岐国守護→天領備前国倉敷代官所津山藩高松藩と政治的な支配者が次々と変遷を辿るうちに、備前か讃岐かの令制国としての所属が曖昧なものとなり、最後に高松藩の預かりとなった宝永5年(1708)以降は事実上、讃岐国として扱われるようになった。
そのような状態が300年余り続いたが、明治維新後の1871年8月29日(明治4年7月14日)14時、廃藩置県により旧高松藩の区域には香川県の前身である高松県が設置され、直前まで高松藩の実効支配を受けていた小豆郡直島諸島はこの時から正式に香川県の所属となった。
また、福浦は地元住民の要望で昭和38年(1963)に兵庫県赤穂市編入された。






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