岡山の歴史12 備中国(びっちゅうのくに)

備中国
現在の岡山県の西部。
延喜式』での格は上国、中国(畿内からの距離が近くもなく遠くもない「中ぐらいの距離にある国」の事)。
7世紀後半に、吉備国備前国備中国備後国に三分して設けられた。
はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。
また平安時代の『和名類聚抄』でも、備中国の和訓を「きびのみちのなかつくに」としている。

古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。
造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。
その後も瀬戸内海に面した交通の要を占め、天智天皇の時代に鬼ノ城が築かれた。
管下に都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀夜、英賀、哲多の9郡がおかれた。
鎌倉時代には、賀陽郡の一部を割いて上房郡、下道郡の一部を割いて川上郡が置かれ11郡となった。

備中国には山陽道の駅家は、津峴(つさか)、河辺(かわのべ)、小田、後月(しつき)の4駅が置かれた(『延喜式』兵部)。

平安時代末、妹尾兼康という武士が出、十二か郷用水を開いて村々を潤した。
兼康は中央の政治では平家に忠実な家人として活躍し、最後は備中国板倉で源義仲に敗れて死んだ。
室町時代備中国細川氏が代々守護であったが、その影響力は早くから絶対的とは言い難く、守護代、庄氏・石川氏・上野氏や三村氏を初めとする有力地頭など国人衆の独立性が強かった。
戦国時代中期には、尼子氏・大内氏の係争地となっていたが、1560年頃には毛利氏と同盟した三村氏(備中松山城を根拠とした)が備中国の支配をほぼ手中にした。
しかし、その三村氏も1575年に織田信長の誘いを受けて毛利氏と対立するに至り、毛利氏によって滅ぼされた(備中兵乱)。
さらに羽柴秀吉を先鋒に織田信長が進出してくると、備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になった。
織田信長の死による講和で、毛利輝元は備中の三郡を譲り、残りを保持することになった。

江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。
元和3年(1617)まで、幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。
その後の江戸時代初期には隣接の備後福山藩水野氏の領として現在の笠岡市井原市の大半が領地であったりし、他の備中国の小藩には、備中松山藩池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、浅尾藩(蒔田氏)があった。
以上は断絶や転封で様々に変遷した。
現在の高梁市にある松山城備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。
松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口を抱えた。

倉敷は、城下町ではなかったが、徳川氏政権の直轄地として代官所が置かれ、幕府によって備前国から讃岐国に移管された小豆島なども統治した。
江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。
現在の倉敷市西部にあたる玉島は、瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。
備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。
また、製鉄もなお重要であり続けた。

明治4年(1871)7月14日の廃藩置県の直後、備中国には10の県があった。
同年中に備後国の6郡とあわせて深津県となった。
深津県は明治5年(1872)に小田県と改称し、明治8年(1875)に岡山県に合併した。




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