岡山ゆかりの歴史人物26 栄西(えいさい)

栄西(1141〜1215)
父:吉備津宮(現在の吉備津神社)の権禰宜賀陽貞遠 母:田氏

久寿元年(1154) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。
以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。
仁安3年(1168) 形骸化した日本天台宗に嫌気し、南宋に留学。
天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来する。
当時、南宋では禅宗が繁栄し、それに大いに感化され、仏法復興のために禅の重要性を感じたとされる。
文治3年(1187) 再び入宋。
仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
建久2年(1191) 虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受ける。
同年、帰国。
福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に努める。
建久5年(1194) 栄西や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
建久6年(1195) 博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。
建久9年(1198) 『興禅護国論』執筆。
禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。
栄西は京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
正治2年(1200) 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
建仁2年(1202) 源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。
建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。
以後、幕府や朝廷の権力に取り入り、それを利用して禅宗の振興に努めた。

茶碑、建仁寺京都市東山区建永元年(1206) 重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。
建暦2年(1212) 法印に叙任。
建保元年(1213) 権僧正に栄進。
政治権力にひたすら追従する栄西には当時から多くの批判があり、特に幕府を動かし、大師号猟号運動を行ったことは大きな非難を浴びる。
栄西の策動は生前授号の前例が無いことを理由に退けられるが、天台座主慈円は『愚管抄』で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。
建保3年(1215) 享年75で病没。



以前、県立博物館で「吉備津展」が開催され、その時に栄西が少年の頃に記した書が出ていました。
栄西吉備津神社禰宜の子供であった事にビックリしましたっ!
栄西はかつて宋より喫茶を伝え、『喫茶養生記』を著した事で茶祖と言われていました。
現在では奈良時代には既にお茶は伝来していた事が判明しているので、栄西は日本の茶祖ではないと言われていますが…。



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