岡山の歴史人物28 宇喜多直家(うきた なおいえ)

宇喜多直家(1529〜1582)
父:宇喜多興家
母:不詳

天文3年(1534)、祖父能家が島村盛実らによって暗殺されたとき、6歳だった直家は父興家と共に放浪の人生を送る。
成人すると天神山城主浦上宗景に仕え、浦上家臣団の中で頭角を現す。
直家は策謀に長けており、祖父の復讐を果たすために島村盛実を暗殺したのを初め、舅である中山信正や龍口城主穝所元常を殺害し、浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たした。

永禄9年(1566)2月、美作へ進出した備中の三村家親を、顔見知りの阿波細川氏の浪人遠藤又次郎・喜三郎兄弟を起用して鉄炮で暗殺。
翌年7月の明善寺合戦によりそれまで備前国西部に進出していた備中勢の駆逐にほぼ成功する。
その後も、姻戚関係にあった金川城主松田元輝・元賢親子、さらに岡山城主金光宗高などを没落させ、その所領を自己の知行とするなど勢力を拡大し、浦上家で随一の実力者となった。

永禄12年(1569)、織田信長西播磨赤松政秀と結び主君浦上宗景を倒すべく反旗を翻す。
しかし赤松政秀が青山・土器山合戦で黒田職隆、孝高親子に敗北。
信長から派遣された池田勝正、別所安治なども織田軍の越前侵攻の為に戻されると逆に宗景は弱った赤松政秀龍野城を攻め降伏させてしまう。
これによって一切の味方が居なくなった直家は完全に孤立した為に独力での抗戦は不可能と判断し宗景への降伏を余儀なくされた。
この時は特別に助命され帰参を許されている。

天正2年(1574)、再び宗景からの独立を狙うにあたってはまず小寺氏預かりとなっていた宗景の兄で浦上政宗の孫久松丸の存在に目をつけ小寺政職に久松丸の備前入りを打診。
許可を得るとこれを擁立し宗景に対して反旗を翻す。
久松丸の擁立と直家の事前の諜略により美作や備前国内での宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、更に宗景と犬猿の仲であった安芸の毛利氏と結び軍事面での不利を覆す。
天正3年(1575)の毛利氏による三村氏攻撃にも加勢するなど協同体勢を取った。
同年9月、宗景の腹心であった明石景親ら重臣たちも内応させ宗景を播磨国へ退け、備前のみならず備中の一部・美作の一部にまで支配域を拡大した。

宗景追放後も依然として備前には旧浦上家臣の勢力が残っており、また宗景や一門の浦上秀宗なども播磨からこれらと密かに連絡を取り合い、度々備前に潜伏する旧浦上家臣の煽動した小規模な蜂起に悩まされる事となる。
この状況は天正6年(1578)12月の浦上残党が一斉蜂起し、幸島を占拠するという事件まで続く事となる。
浦上宗景・秀宗らが首謀者となったこの武装蜂起は一時期、天神山城を奪うなど勢いを見せ鎮圧には数ヶ月を要した。しかし、これを期に備前や播磨に潜んでいた旧浦上の勢力を領内から放逐し、宗景の領主復帰の野望を打ち砕きついに宇喜多家の領内での安定した支配権が確立される事になった。

しかし織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国方面に進出すると、これに対抗。
天正7年(1579)5月、信長に内応したとして東美作の後藤勝基などを滅ぼしたものの、10月には直家自身も毛利家と手を切って信長に臣従する。
以降美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返すが、天正9年(1581)の末頃に岡山城で病死。



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