岡山の歴史人物30 宇喜多能家(うきた よしいえ)

宇喜多能家(?〜1534)

父:宇喜多久家
母:不詳

赤松氏のもとで守護代を務めていた浦上則宗浦上村宗に仕え、備前国豊原荘砥石城を領していた。
15世紀末当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配していた。
浦上氏の被官として、宇喜多氏の名が伺われるようになるのはこの頃のことである。
しかし応仁の乱に始まる戦国の世が備前にも及ぶこととなると、文明15〜16年(1483 - 1484)には、「福岡合戦」と呼ばれる騒乱が勃発した。
これは室町初期には備前守護に任じられたこともある有力国人の松田氏らが、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとしたことが遠因になったとされる。
こうして浦上氏と松田氏は備前国内で勢力を争うようになった。
さらに浦上家中では家督をめぐって内訌が生じ、明応8年(1499)には浦上則宗と浦上村国とが合戦におよんだ。
則宗は戦いに敗れ白旗城に篭城したが、村国の包囲で落城寸前になり、一族のものまでが則宗を見捨てて落ちのびようとするにいたった。
この時、能家が義を説き、励ましたことで城兵は奮戦し、やがて村国は兵を引き揚げた。

文亀2年(1502)冬、能家は浦上軍の総大将として松田勢との戦に赴き、吉井川を越えた宍甘村付近でみずから敵将・有松右京進を討ち取るなどの奮戦をした。
翌年、能家は浦上勢とともに吉井川を渡り、松田勢と雌雄を決すべく上道郡に進入した。
松田元勝も自ら兵を率い御野郡笠井山に陣を定め、旭川の牧石の河原で両軍は激突した。
松田勢は山から軍を駆けおろして浦上勢を包囲する形となったが、これを見た能家は宇喜多全軍を率いて旭川をわたり救援に向かった。
能家も兜に矢をうけ槍で突かれたがものともせず奮戦し、乱戦を制して松田勢を敗走させた。

則宗の跡を継いだ村宗であったが、自立を図る赤松義村と不和となり、永正15年(1518)居城の三石城に退去した。
しかし義村は権力拡大の好機ととらえ、自ら兵を率い三石城に迫った。
浦上氏にとって主筋にあたる義村の攻撃は、城中を動揺させ多くの逃亡者を出した。
しかし将兵の信頼を得ていた能家の活躍により赤松勢の猛攻に耐え、やがて船坂峠の戦いで赤松勢を敗走させた。

永正17年(1520)、赤松義村は再度兵をおこし、三石城には浦上村国を、東美作を攻略すべく小寺則職を向かわせた。
東美作で赤松勢は浦上勢を圧倒したが、能家は踏みとどまった少数の兵を率いて朝駆けを行うなど、離散した兵を糾合し赤松勢と対峙した。
さらに村宗は小寺氏の家臣を寝返らせることに成功し、これをもって東美作の赤松勢を敗走させた。
これらの度重なる敗北により義村の権威は失墜し、逆に村宗の勢力は拡大した。
遂には播磨に侵入して西播磨一帯を制圧し、赤松義村を隠居させ幽閉し、後に殺害した。

大永3年(1523)、義村の子である赤松政村(晴政)を擁立した浦上村国と小寺藤兵衛を討つため、浦上村宗は播磨に出兵した。
しかし先陣を務めた能家の次男宇喜多四郎が、村国の策略にあって討死となった。それを知った能家はみずからも死地を求めて敵陣に突撃奮戦し、結果的に浦上軍に勝利をもたらした。
この能家の奮戦を伝え聞いた管領 細川高国は、名馬一頭と名のある釜を贈ったと伝えている。
翌大永4年(1524)、家督を子の興家に譲り、出家している。

享禄4年(1531)、主君の村宗が天王寺の戦いで細川晴元三好元長の連合軍に敗れて戦死すると、それを機に砥石城で隠居した。
天文3年(1534)、以前から仲の悪かった同じく浦上氏の家臣であり、尾根向かいの長沼荘高取城主島村盛実の奇襲を受け砥石城にて自害した。





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