岡山ゆかりの歴史人物15 播磨稲日大娘(はりまのいなびのおおいらつめ)

播磨稲日大娘(?〜122)
古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』に記される第12代景行天皇の皇后。日本武尊ヤマトタケル)の母。針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢とも称される。


古事記
「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記される。
吉備臣らの祖の若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の女で、櫛角別王(くしつのわけのみこ)・大碓命(おおうすのみこと)・小碓命・倭根子命(やまとねこ)・神櫛王(かむくしのみこ)らの母親とされる。
また、妹として伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)が記され、同じく景行天皇の妃であったという。


日本書紀
播磨稲日大郎姫」と表記され、景行天皇2年(72)3月3日に皇后に立てられた。大碓皇子(おおうすのみこ)・小碓尊日本武尊)の母とされるが、この他に稚倭根子皇子(わかやまとねこ)の母とする説も注している。
また、稲日大郎姫の名の異説として「稲日稚郎姫」を挙げており、これは『古事記』で妹とされた伊那毘能若郎女に通じる。
なお、景行天皇52年条に薨去記事がある。


播磨国風土記
記紀』のイナビノオオイラツメは、『播磨国風土記』の賀古郡・印南郡条に登場する「印南別嬢」(いなみのわきいらつめ)と同一人と考えられる。
「ワキイラツメ」の名は、『古事記』で妹とされ、『日本書紀』で別名とされた「ワカイラツメ」の名に通じる。
風土記によれば、印南別嬢の父は丸部臣(わにべのおみ)の祖・比古汝茅(ひこなむち、彦汝命か)、母は吉備比売(きびひめ)である。
景行天皇は印南別嬢を妻問いに播磨へと出向いた。
別嬢は身を隠したが、天皇に探し当てられ、2人は城宮(加古川町木村?)で結ばれた。
年経て没した後は日岡に墓を造ったが、遺骸を運ぶときに川の中に沈んでしまい、櫛箱と比礼(薄い肩掛け)のみを埋葬したという。



今回は記紀神話の中に見られる吉備氏出身の皇后播磨稲日大娘を取り上げてみました。
実在したかは極めて疑わしいですが(笑)。
紀元後100年代って…、弥生時代ですしっ!
邪馬台国卑弥呼よりも古い時代なので。







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