歴史人物4 伝説上の斎王 荳角皇女(ささげのひめみこ)

荳角皇女(生没年不詳)

父:継体天皇
母:娘麻績娘子(息長真手王の娘)

別名は篁麻皇女。『古事記』では佐佐宜女郎(ささげのいらつめ)。第5代伊勢斎王。

日本書紀』『古事記』に簡潔な記事のみが残され、斎王としての経歴は不明。
日本書紀』継体紀以降の斎王の記述は事務的であるが、継体・欽明・敏達・用明の四代の記事には、用語や用字に統一性がないので、ある時期に一斉に補筆されたとは考え難く、記事の信憑性は高いといえる。
また伊勢神宮の成立を検討している直木孝次郎氏・岡田精司氏・門脇禎二氏などの多くの研究者が、この期の史料にはかなりの信憑性があると考えている。
つまり継体朝の荳角皇女は実在が認められる初めての斎王であり、雄略紀のような伝承レベルの斎王とは一線を画している。





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歴史人物3 伝説の上の斎王 稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)

稚足姫皇女(?〜459)

父:雄略天皇
母:葛城韓媛(葛城円大臣の娘)

別名は栲幡姫皇女(たくはたひめのひめみこ)。芿寧天皇の同母姉妹。第4代伊勢斎王。


エピソード…『日本書記』雄略紀3年4月条より
雄略天皇の即位後、伊勢斎王に卜定。(時期不詳)
雄略天皇3年、阿閉臣国見(あへのおみくにみ)が栲幡姫皇女と湯人の廬城部連武彦(いほきべのむらじたけひこ)が密通し、栲幡姫皇女が妊娠していると讒言。
そのため武彦は父に殺され、栲幡姫皇女は神鏡を隠して五十鈴川の辺で自殺。
しかし、鏡から立った虹により、栲幡姫皇女の屍が発見される。
雄略天皇の命令で皇女の亡骸を割き観れば、腹の中に物有りて水の中に石有った。
神の姿が石に宿るという考え方は広範にみられるものであり、これにより武彦の無実が明らかになり、国見は石神神宮に逃げ隠れた。





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大河ドラマ 『平清盛』の感想

第1話:ふたりの父

ずっと楽しみにしていた平清盛が始まりました。
全体的に骨太&泥臭い雰囲気のドラマに仕上がっているように感じます。

まだ始まったばかりで、これからどうなるか分かりませんが、楽しみにしたいと思います。

清盛の出自に関しても王道の落胤説を取っていましたし、祇園女御の庇護下にあった史実も抑えていてよかったと思います。

ただ、ちょっと血なまぐさいですね…。
特に、仙洞御所でのシーンは…。
普通は御所で、しかも法皇の目の前で人を討ったりしません。
穢れちゃいます。
法皇を筆頭にその場にいる人みんな(・_・;)

落胤説を取るのはいいと思うのですが…、もっと普通の祇園女御の妹が母親説でよかったかと。
白河法皇には落胤がいっぱいいますし…、その返の件が釈然としませんでした。
陰陽師もあんな占いしませんし…。


でも、久しぶりの大河なので期待はです♪
これから華やかな雰囲気になっていくのかな〜。
平家のイメージは、優美で華やかなので。



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岡山の歴史遺産37 箭田大塚古墳(やたおおつかこふん)


箭田大塚古墳
☆所在地:岡山県倉敷市真備町箭田
☆アクセス:井原鉄道吉備真備駅下車、徒歩25分
☆料金:無料
☆内部見学時間:8時30分〜17時
 ※見学は086-426-3851に事前連絡要。
 ※休み:土・日曜、祝日
☆概要
岡山県下3大巨石古墳の1つ。(他に牟佐大塚古墳、こうもり塚古墳)
6築造時期は6世紀後半〜7世紀頃。
明治34年(1901)に初めて学術調査が行われ、土器・刀剣・馬具・金環・勾玉等が発見された。
これらは現在、東京国立博物館などに所蔵されている。
昭和4年(1929)12月17日、国の史跡に指定。
(※平成4年(1992)12月18日追加指定)。

従来、張り出しがあるために、前方後円墳ないし、それに準ずる帆立貝型古墳と思われていた。
しかし、昭和58年(1983)の実地調査で周濠が確認され、張り出しを持つ円墳であることが確定した。
墳墓の大きさは直径54メートル、高さは7メートル。
横穴式石室は羨道と玄室から成っており全長は19.1メートル。
玄室は長さ8.4メートル、幅3メートル、高さ3.7メートルで天井石は4枚の巨石で構成されている。
石室内に3基の組み合わせ式石棺が置かれている。



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岡山の歴史遺産36 楯築遺跡(たてつきいせき)


楯築遺跡

☆所在地:岡山県倉敷市矢部
☆アクセス:岡山自動車道岡山総社ICから国道180号を矢部方面へ車で8km
☆見学自由
☆駐車場あり(無料)
☆概要
王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓。
墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。
直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級。

主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分だけでも高さ・幅とも1メートルあまりで20個ほどの列石がめぐらされ、北東側の突出部は団地造営工事のため破壊されている。
今ではその名残を一部にとどめているに過ぎないが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びている。
その上面は幅約3、4メートルで、わずかに前面に向かって下降気味であるが、平坦に近い。
突出部の前面はかなり急な傾斜で2〜3メートルほど下がり、東西に走る小道に達しており、小道をわたると突出部の続きと思われる高まりが続く。
盛り土していたことが確認できる。
また円礫が二重三重に置かれている。
円丘につけられた遺構であることが分かる。 南西側の突出部は約20数メートルにわたって細長い幅数メートル高さ2メートルほどの尾根状のものが伸びている。
先端部の両側が丸く整形されていてその先端には大きな列石が貼られている。西部分には現在、給水塔が建っていて、今は見ることができない。

香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳であるが、先行的な形態をしている。
2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見え、この地域で墳丘の造営の動きが見られるようになった。 このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせる。
その勢力の代表的な首長の墓であると推測されている。後の古墳時代中期には造山(350メートル)、作山古墳(270メートル)の大前方後円墳が造られる。

墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれる。

吉備津神社や鬼ノ城などと同様に、温羅伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。

昭和56年(1981年)12月9日、国の史跡に指定された。



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岡山の歴史人物37 荒木又衛門(あらき またえもん)

荒木又衛門(1599〜1638)
父:服部平左衛門
母:不詳

慶長4年(1599)、伊賀服部郷荒木村に生まれる。
父の服部平左衛門は始め藤堂高虎に仕えていたが、淡路で浪人した後、備前岡山藩の池田忠雄に召し抱えられた。
平左衛門には、渡辺数馬(内蔵助)という同僚がいて、ともに大坂の陣で従軍、浪人した後に召し抱えられるという経歴も同じくする関係にあった。
この内蔵助の子に、みの(女)、数馬(2代目)、源太夫があった。のちに又右衛門は、みのを嫁に迎え、2代目数馬、源太夫とは義兄弟の縁となる。

又右衛門は次男で、兄弥五助が池田家に仕えたこともあり、12歳のときに本多政朝の家臣、服部平兵衛の養子となった。
しかし、元和8年(1622)に本多家が姫路城主となったあと、28歳頃に養家を離れ、浪人して生まれ故郷の伊賀に帰っている。
故郷で又右衛門ははじめ菊山姓を名乗り、のちに荒木姓を名乗った。
又右衛門が15歳のころ柳生宗矩柳生三厳の門人となったという説が『柳荒美談』などにあるが、宗矩は江戸在住であり、又右衛門は物心付いたころからは備前播州で過ごしている。
さらに、又右衛門は三厳より8歳年長であり、10歳に満たない子供の門人になるとは考えられない。
三厳に剣を学んだとすれば、浪人後のことと考えられる。
なお、父からは中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学んだようである。

その後、大和郡山藩、松平忠明に召し抱えられ、剣術師範役250石に取り立てられた。
剣術師範の上席300石には、河合甚左衛門がいた。
甚左衛門は河合又五郎の伯父であり、のちに又右衛門と対決することになる。


決闘鍵屋の辻
渡辺内蔵助の息子、源太夫は、岡山藩で美男子として知られ、藩主池田忠雄の寵童であったという。
寛永7年(1630)、同僚の河合又五郎から懸想されてこれを拒んだために殺された。
又五郎は江戸に逃げて旗本安藤家にかくまわれ、藩主忠雄は又五郎の身柄引き渡しを求めたが、拒まれた。この背後には、大名と旗本の対立があったとされる。
仇討ちとして、兄が弟の(尊属が卑属の)仇を討つことは異例であったが、池田侯の上意討ちの内意を含み、渡辺数馬は仇討ちの旅に出たという。
数馬が義兄に当たる又右衛門に助太刀を要請したのは寛永10年(1633)頃とされる。
又右衛門は快諾して郡山藩を退身する。
この間、藩主池田忠雄が没し、跡を継いだ光仲は鳥取へ移封される一方、又五郎は江戸払いに処されていた。

寛永11年(1634)11月7日、数馬と又右衛門は伊賀上野鍵屋の辻で河合又五郎を討ち、仇討ちの本懐を遂げた。
数馬側は4人のうち1人死亡、3人負傷、河合又五郎側は11人のうち4人死亡、2人負傷、5人無傷(逃亡)だった。
このときの又右衛門は「36人斬り」などともいわれるが、これは脚色による誇張で、実際に斬ったのは、河合甚左衛門と桜井半兵衛の2人である。
しかし、この2人が河合側の主力で、甚左衛門は同じ大和郡山藩の上席剣術師範、半兵衛は尼崎藩の槍術師範であった。

又右衛門はまず、馬上の河合甚左衛門の足を薙ぎ、返す刀で甚左衛門を斬って即死させた。
桜井半兵衛には小者2人をかからせて得意の槍を渡さないようにさせ、刀の勝負で半兵衛に深手を負わせた(半兵衛は2日後に死亡)。
渡辺数馬は河合又五郎一人に専心し、数時間に及ぶ死闘の末、ついに又五郎を討ち果たした。
この斬り合いの最中、城下から駆けつけてきた伊賀藤堂家の竹本六太夫が「何事だっ」と声をかけると、桜井半兵衛と対峙していた又右衛門は余裕綽々、「おう、仇敵でござる」とか返事したという。
太夫自身が動転していて、又右衛門の言葉を正確に思い出せないのであるが、その度胸を激賞したという。

しかし、又右衛門が半兵衛を倒したとき、逆上した又五郎側の小者が又右衛門の背後から木刀で打ちかかってきた。
又右衛門は腰に一撃を受けたともいう。
さらに撃ちかかるところを振り向いて刀で受けたところ、刀身が折れてしまった。
これが伊賀守金道と誤伝されているが、又右衛門の愛刀は山城の名流「来家」を再興した「来金道」こと和泉守金道であったという。
しかし斬り合いの急場に新刀を用いたことから、藤堂家の家臣で戸波流を興した戸波又兵衛は「大切な場合に折れやすい新刀を用いるとは、不心得である」と批評したという。
これを聞いた又右衛門は不覚を悟り、寛永12年(1635)10月24日、数馬を伴って戸波に入門した。


数馬と又右衛門は藤堂家に客分として保護されたが、鳥取藩池田光仲の請いにより、寛永15年(1638)8月12日に鳥取に移った。
二人はそれぞれ妻子を呼び寄せたが、又右衛門の妻子が9月に鳥取に到着したころには、又右衛門は8月28日に頓死したということになっていた。
毒殺説もある。
又右衛門の墓は、鳥取市内の玄忠寺にある。
渡辺数馬は寛永19年(1642)12月2日に35歳で没した。

しかし、実際に又右衛門が死んだのは、寛永20年(1643)9月24日のことで、この間、又右衛門と数馬は、鳥取城内にかくまわれていたとする説がある。
この説によれば、急死と発表された理由は、河合党による暗殺を恐れて病死をよそおった、あるいは、鳥取藩への移籍話がまとまらないため、死んだということにして交渉を打ち切ったものと考えられている。




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岡山の歴史人物36 浦上政宗(うらがみ まさむね)

浦上政宗(?〜1564)
父:浦上村宗
母:不詳

備前国戦国大名
享禄4年(1531)、父村宗が摂津天王寺で戦死後に家督を相続。
この頃まだ幼少の身であった政宗は一族の浦上国秀の後見を天文7年(1538)ごろまで受ける。
その後、元服して天文9年(1540)初頭から「与四郎政宗」を名乗った。

当初は父の仇である赤松晴政と激しく対立し、西播磨の国衆と結束して抗争を続けていた。
しかし天文6年(1537)に尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まると晴政と和睦。
晴政と共にこれに対するも国衆の離反にあって敗北し、備前国から播磨国への撤退を余儀なくされ、天文8年(1539)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、晴政を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。

しばらく雌伏の時が続くが詮久が吉田郡山城の戦いの頃に播磨の駐留軍を退くと天文11年(1542)に幕府の助力を得て晴政と共に播磨に復帰。
天文13年(1544)ころまでに播磨•備前の両国を回復する事に成功した。
ここに至るまでの過程で政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立場を占め、これ以降政宗は晴政の筆頭宿老の座に就き、晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなどした。
また、さらに独自に備前西部の松田氏、税所氏らと縁組し備前•播磨での勢力をさらに強め赤松の家臣の枠から抜けていく。

天文20年(1551)、再び備前へ侵攻してきた尼子晴久との関係をめぐり弟の宗景と意見が分かれる。
そこで政宗尼子晴久松田元輝と同盟を結び、宗景は毛利元就の援助を得て対立。
備前の国衆も政宗に味方する者(浮田国定など)、宗景に味方する者(中山信正など)が現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。
しかし天神山城や新庄山城などで相次いで敗北。
さらに旧主晴政も三石まで出兵してくるなどし敵に囲まれた政宗は味方の国衆の動きを操ることもままならないまま弘治年間(1555〜 1557)の内に備前での勢力を大きく後退させてしまう。

この間にも尼子晴久に度々支援を要請しており、これに際して晴久は自ら約30000余りの軍勢を持って美作国に侵攻した宗景を撃破するも、晴久・政宗にとっても決定打とはならなかった。
更には晴久の急死により尼子氏の勢力が後退すると、これらの支援も期待出来ない状況へと追い込まれた。

勢力の弱まった政宗は永禄元年(1558)になると足利義輝の仲裁で毛利との和睦の道を探る。
また、同年中に自身の復権を目指して赤松晴政を廃して子の赤松義祐へと強制的に家督を継がせる事に成功している。
しかしながら一方で追放された晴政も娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産むことにも繋がった。

また永禄6年(1563)には10年以上に渡り対立していた宗景とも和睦が成立。播磨の黒田職隆と縁組して再起を図る。
しかし永禄7年(1564)1月、職隆の娘と息子浦上清宗(小次郎、又は与四郎とも)の婚礼が行われている最中、あるいは婚礼当日の夜に赤松政秀の奇襲を受けて親子ともに戦死した。




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