岡山の歴史遺産44 中国銀行倉敷本町支店(ちゅうごくぎんこう くらしきほんまち してん)


中国銀行倉敷本町支店
☆所在地:岡山県倉敷市本町3-1
☆アクセス:JR倉敷駅から徒歩10分
☆営業時間:午前9〜午後3時
☆定休日:土・日曜、祝日
☆概要
国の登録有形文化財
第一合同銀行の倉敷支店として、大正11年(1922)に竣工したルネサンス風の建物。
大原美術館や有隣荘などの大原家関係の建物に多く関わった建築家薬師寺主計が設計。
鉄筋コンクリート造り(一部木造)の2階建てで、屋根は寄棟,小屋組はトラス組。
外壁は御影石洗い出しで仕上げられ,腰壁は御影石貼りになっています。正面に6本,側面に3本の円柱をあしらい、屋根は銅板一文字葺きで、前後の屋根上には3つの屋根窓が設けられている。
営業室は2階まで吹き抜けになっており、壁と天井は洗練されたデザインの漆喰レリーフで飾られている。
なお、平成15年(2003)6月27日に、「中国銀行倉敷本町支店」から「中国銀行倉敷支店倉敷本町出張所」に店舗名称が変わって営業が続けられている。



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岡山の歴史遺産43 大橋家住宅(おおはしけじゅうたく)


大橋家住宅

☆所在地:岡山県倉敷市阿知3-21-31
☆アクセス:JR山陽本線倉敷駅から徒歩10分
☆開館時間:午前9時〜午後5時(4月〜10月の土曜日は午後6時まで)
☆休館日:12月〜2月の毎週 金曜日、12月28日〜1月3日
☆入館料:大人500円、小中学生・65歳以上300円、団体(30名以上)大人400円
☆概要
国指定重要文化財
大橋家は水田、塩田の開発で財をなした地主で「新禄」と呼ばれる新興勢力を形成していた。
現存する建物は寛政7年(1796)〜寛政10年(1799)に建設された。
白壁に貼り瓦、倉敷格子など倉敷独特の建築様式を有する。
現在、海鼠板の米蔵が展示室になっていて当時の生活用具などを見ることができる。
昭和53年(1978)1月21日、主屋、表門、米蔵、内蔵の4棟が重要文化財に指定され、昭和57年(1982年)6月11日敷地も追加指定された。




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岡山の歴史遺産42 大廻小廻山城跡(おおめぐりこめぐりさんじょうあと)


大廻小廻山城跡
☆所在地:岡山県岡山市東区瀬戸町観音寺笹岡
☆アクセス:JR山陽本線上道駅瀬戸駅
☆概要
大廻小廻山城跡は、岡山市の北東部瀬戸町と境を接する標高198.8mの独立小山塊の大廻山小廻山に所在する古代山城跡。
備前国分寺・国分尼寺跡の南東部約2kmに位置する。
城跡は、土塁築成の城壁が山頂部から谷部を取り囲み山塊を一周しており、3箇所の谷部には石塁が築造されている。
城跡東山腹には、平安時代後期開基とされる築地山の山号を持つ常楽寺が所在しており、城跡内から多数の室町時代の線刻石仏が出土していることなどから城跡は中世には常楽寺の宗教施設として使用されていたものと考えられている。
しかし、明治期に一帯は国有林となり、戦後は開拓地として開墾されてきた。
地元の荒木誠一は『赤磐郡誌』(1940年刊)で「小廻城址」を取り上げ天智朝の朝鮮式山城の可能性を主張している。
また、戦後では古絵図や郡誌の記事から城跡の存在を主張した研究者もいたが、本格的な遺構の分布調査は、昭和48年末から開始された。
その結果、3箇所の石塁を伴って囲繞する約3.2kmにわたる土塁線の全周が確認された。
当時、県内で鬼城山の遺跡が確認されていたことと相まって古代山城跡として学界の注目するところとなった。
その後、昭和58年には開拓地を買収して産業廃棄物処理場として使用しようとする開発計画が持ち上がり、翌59年から63年度にかけて岡山市教育委員会による発掘調査が実施された。
その結果、北部九州に見られる神籠石様の列石を版築盛土の基礎とした土塁線の構造や折れを伴った列石線、谷部分の一の木戸の通水施設を持つ石塁の構造、二の木戸の石塁構造などが確認された。
列石の石材は、現地で採ることのできる砂質ホルンフェルスを中心とした自然面を残す割石であり、長さが20から100cm(平均約45cm)、厚さ15から50cm(平均約30cm)の規模のものを使い、石の外側の上面を揃えた形状に置かれている。
この列石は版築盛土で覆い隠されており、版築を含む盛土の幅は、5から10mで、高さは2m前後で外側の傾斜角最大約80度を測る。
また、土塁線の比高差は約110mで、89箇所の折部を伴うことも確認された。一の木戸は、現状で高さ2.4mを測り、石塁主軸に対して72度で斜交する通水施設を持っている。
通水施設は、吸水口で高さ0.4m、幅1.0mを、排水口で高さ0.7m、幅0.7mの規模を測る。
その他、城門遺構や城内建築物等の遺構は検出されていない。
なお、出土遺物としては、白鳳期から奈良時代初期に比定される須恵器片があるが、遺構との共伴関係にはなく、遺跡の年代特定に至るものではない。
類似の古代山城跡の構造から、城跡の築造時期はほぼ7世紀に築造されたと推定できる。
このように発掘調査により、列石を伴った土塁線・水門を伴った石塁など古代山城跡としての遺構が確認された大廻小廻山城跡は、他の古代山城跡と同様に、我が国古代、特に7世紀の東アジアを中心とした対外関係の歴史を考える上で重要であり、史跡として指定し保護しようとするものである。




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岡山の歴史遺産41 百間川遺跡(ひゃっけんがわいせき)

百間川遺跡
百間川は、岡山平野のほぼ中央部を流れる旭川の放水路。
百間川改修工事の際に、中流域の河川敷の下4カ所で集落遺跡が発見され、昭和52年(1977)より発掘調査が行われた。
縄文後期から中世にかけての複合遺跡である。
遺跡名は大字名を冠しており、総称して百間川遺跡と呼ばれる。
弥生時代後期末には、水田がかなり広大に行われていたと推定されている。
また、部分的に稲株跡が見つかっており、株の大きさやその分布状況から「田植え」が行われていたと考えられている。

原尾島遺跡(はらおじまいせき)
原尾島遺跡では、縄文時代後期から室町時代にかけての集落群が発掘された。
主には弥生時代後期から古墳時代にかけての集落、鎌倉時代から室町時代にかけての集落が中心である。

沢田遺跡(さわだいせき)
沢田遺跡は弥生時代前期から古墳時代前期にかけての集落群の遺跡である。特に弥生時代の遺跡は環濠に囲まれていたことが確認されている。
ここで発掘された弥生土器は現在、岡山市埋蔵文化財センターに収蔵されている。

兼基・今谷遺跡 (かねもと・いまだにいせき)
兼基・今谷遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡と鎌倉時代の集落跡の遺跡である。弥生時代の遺跡からは水田跡や掘立柱の建物群が発掘された。

米田遺跡(よねだいせき)
米田遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡と、奈良時代から室町時代にかけての遺跡である。特に奈良時代から室町時代にかけての遺跡では道路や橋脚の跡や、掘立柱の建物群が発掘されている。

笄の井戸 (こうがいのいど)
米田遺跡の下手には「笄の井戸」がある。
百間川遺跡群の南にある操山山塊の最東端部には戦国時代に正木城があり、天正年間(1573 - 1592)城主の正木大膳康正が宇喜多直家に攻められ落城した。
その際、康正の妻玉尾の方は娘の初瀬を抱いてこの井戸に身を投げた。
後年、この2人を供養したところ、井戸より笄と櫛が浮かび上がり、この井戸を「笄の井戸」と呼ぶようになったという伝承が伝わっている。



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岡山の歴史遺産40 津島遺跡(つしまいせき)


津島遺跡
☆所在地:岡山市北区いずみ町2−1
☆アクセス:JR岡山駅西口から 約5分(スポーツセンター前下車)
      JR岡山駅東口から 約10分(スポーツセンター前下車)
☆概要
岡山県総合グラウンドおよびその周辺にひろがる、弥生時代を中心とした集落遺跡。
全国で初めて、弥生時代前期の集落と水田が隣接して発見されたことで学史上著名。
集落を設けた微高地の周辺、湿地の間の3〜5アールのごく狭い範囲に水田がつくられていた。
イネの花粉、各種の水田雑草の種子や葉の存在から、水田土壌自身が残っていることも証明された。
この水田と湿地との境には杭列、微高地との境には矢板の列によって区画してあったが、方形の区画は認められなかった。

近年の調査では、上記の水田とは別に、畦畔で区画された弥生前期の水田も広範囲にわたって検出された。
このことから、弥生前期の段階では2種類の水田が並存した可能性も考えられている。
また、弥生時代後期の河川跡からは建物の部材などを含む木製品多数も見つかっている。

昭和46年(1971)1月15日に一部が国の史跡に指定された。
平成14年(2002)、集落域と水田域が国の史跡に追加指定。
平成17年(2005)、晴れの国おかやま国体の開催に伴う岡山県総合グラウンドの再整備に先行して発掘調査が行われ、弥生時代後期の高床倉庫の建築部材などが検出された。
平成21年(2009)3月、遺跡の整備工事が完成。
竪穴住居や高床倉庫のほか、湿地や水田部分が再現されている。
竪穴住居は内部の見学が可能。 出土品は、岡山県総合グラウンド陸上競技場カンコースタジアム内に設けられた「遺跡&スポーツミュージアム」に展示されている。

遺跡&スポーツミュージアム
○開館時間:午前9時〜午後4時30分
○休館日:毎週月曜日(祝日及び振替休日の場合は翌日)、年末年始、展示替え期間中
○入館料:無料
○場所:陸上競技場(カンコースタジアム)内


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岡山の歴史遺産39 宝福寺(ほうふくじ)

宝福寺

☆所在地:岡山県総社市井尻野1968
☆アクセス:JR総社駅よりタクシーで約8分
☆概要
臨済宗東福寺派の寺院。
雪舟が修行したことで有名な寺院でもある。
創建の年代は不明。
天台宗の僧日輪によって開かれたとされ、元来は天台宗の寺院であった。
鎌倉時代の貞永元年(1232)に備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧鈍庵慧總によって禅寺に改められた。

四条天皇が病気のおり、鈍庵が天皇の病気平癒のために祈祷を行ったところ、壇前に客星が落ち、天皇の病気は平癒したという。
星が落ちた場所に井戸を掘り「千尺井」と名付け、これが山号「井山」の由来となった。その後、寺院は天皇勅願寺となり発展した。
一時は塔頭・学院55、末寺300寺を数えるほどの巨刹となり隆盛を誇った。

しかし戦国時代に起こった備中兵乱のため、天正3年(1575)には三重塔を残し伽藍のことごとくを戦火により失った。
その後、江戸時代に至るまでの間は荒廃していたが、江戸時代初期に復興され、再び山門・仏殿・方丈・庫裏・禅堂・鐘楼・経蔵の禅宗様式七堂伽藍を備える本格的な禅寺となった。
本堂にあたる仏殿(別名・法堂)は享保12年(1727)に再建されている。



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岡山の歴史遺産38  旧埴原家(きゅうはいばらけ)


旧埴原家
☆所在地:岡山県高梁市石火矢町
☆アクセス:JR伯備線備中高梁駅から徒歩15分
☆開館時間:9時〜17時
☆休館日:年末年始(12月29日〜1月3日)
☆入場料:共通券=大人400円、小・中学生200円
☆概要
江戸時代中期から後期にかけて、百二十石から百五十石取りで、近習役や番頭役などを
務めた武士の住宅。
江戸後期の建築として、平屋建て、西向きの正面の屋根は流れ向拝、その側面はすがる破風とし、桟瓦葺き、南北の破風は入母屋造り掛瓦の箕甲葺き、三ツ花懸魚を取り付け寺院を思わせる屋根である。
玄関には幅二間の式台を設け、玄関の間(出居)は壁を数奇屋風に朱色とし、正面には一間半の棚を設けている。また式台の上部には、袖切ををした水引紅梁に若葉を施し、蟇股には加賀前田家が使用した梅鉢の家紋を彫刻している。
玄関南隣にある十二畳の「座敷」は本床造り、海老束で支えた違い棚に天袋、付書院には禅宗風の花頭窓を配置し部屋の鏡は京風の格子欄間となっていて、柱はぜいたくな面皮柱を使用。
その北隣りの四畳半の部屋の押入れを隔てる壁には下地窓(塗りさし窓)が設けられ、床柱を省略した数寄屋造りの面影を残す。
また屋敷裏には蔵や車つるべ井戸が残る。
旧埴原家住宅は、藩主勝正公の生母の実家でもあるため、松山城下の武家屋敷としては、寺院建築や数奇屋風の要素を取り入れた珍しい造りであり、市の重要文化財に指定されている。


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