岡山の歴史遺産30 熊山遺跡

熊山遺跡 ☆所在地:岡山県赤磐市奥吉原 ☆アクセス:JR熊山駅から車で40分 ☆公開時間:午前10時〜午後5時 ☆休日:年中無休 ☆入場料:無料☆概要 熊山遺跡とは古来より信仰の対象となっていた熊山(508m)の山頂付近にある、基底部と3段の基壇で構成された…

岡山の歴史人物32 宇喜多忠家(うきた ただいえ)

宇喜多忠家(1533〜1609?) 父:宇喜多興家 母:阿部善定女宇喜多直家の異母弟。同母弟に春家がいるとされるが、同一人物説もある。兄である直家を古くから補佐して、その創業の多くを助けたという。 特に天正6年(1578)に毛利氏とともに尼子軍が籠もる播…

岡山の歴史人物31 宇喜多興家(うきた おきいえ)

宇喜多興家(?〜1536又は1540) 父:宇喜多能家 母:不詳 子に宇喜多直家、忠家、春家がいる。大永4年(1524)、能家より家督を譲られる。天文3(1534)に父の能家が島村盛実により砥石城を攻められ自害した際、子の直家を連れ備後国鞆津まで落ち延…

岡山の歴史人物30 宇喜多能家(うきた よしいえ)

宇喜多能家(?〜1534)父:宇喜多久家 母:不詳赤松氏のもとで守護代を務めていた浦上則宗、浦上村宗に仕え、備前国豊原荘砥石城を領していた。 15世紀末当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配していた。 浦上氏の被官として、宇喜多氏の名が伺わ…

岡山の歴史人物29 宇喜多久家(うきた ひさいえ)

宇喜多久家(生没年不詳) 父:宇喜多宗家もしくは児島信徳 母:不詳 室町時代後期の人物。宇喜多能家、宗因、浮田国定の父。家督相続の時期などについては不明瞭だが文明2年(1470)に赤松政則の命で宇喜多宗家が西大寺に土地を寄進したという記録が西大寺…

岡山の歴史人物28 宇喜多直家(うきた なおいえ)

宇喜多直家(1529〜1582) 父:宇喜多興家 母:不詳天文3年(1534)、祖父能家が島村盛実らによって暗殺されたとき、6歳だった直家は父興家と共に放浪の人生を送る。 成人すると天神山城主浦上宗景に仕え、浦上家臣団の中で頭角を現す。 直家は策謀に長けて…

岡山ゆかりの歴史人物27 雪舟(せっしゅう)

雪舟(1420〜1506) 備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。 生家は小田氏という武家と言われている。 幼い頃近くの宝福寺に入る。(※少年時代の雪舟が禅師に叱られて柱に縛られた時に、流した涙を足の親指で鼠の絵を描いたエピソードが残されている…

岡山ゆかりの歴史人物26 栄西(えいさい)

栄西(1141〜1215) 父:吉備津宮(現在の吉備津神社)の権禰宜賀陽貞遠 母:田氏久寿元年(1154) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。 以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。 仁安3年(1168) 形骸化した日本天台宗に嫌気し…

岡山ゆかりの歴史人物25 豪姫(ごうひめ)

豪姫(1574〜1634) 父:前田利家 母:まつ 豊臣秀吉の養女尾張国荒子(現在の愛知県名古屋市)に誕生。 幼少の頃、子のなかった羽柴秀吉の養女として出される。 豪姫は秀吉や正室のおねに寵愛され、秀吉はおねに宛てた手紙の中で「もし豪が男であったら関白…

岡山の歴史24 法然(ほうねん)

法然(1133〜1212) 父は美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使漆間時国(うるまときくに)。母は秦氏君(はたうじのきみ)。『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141)、9歳の時に源内武者貞明の夜討によって父を失う。 その際、父…

岡山ゆかりの歴史人物23 熊谷直実(くまがい なおざね)

熊谷直実(1141〜1207) 父は熊谷直貞、母は小沢氏。 武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。 幼名を弓矢丸という。 その名のとおり弓の名手である。 幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。 保元元年(1156)7月の保元の乱で源義朝…

岡山ゆかりの歴史人物22 源師頼(みなもとのもろより)

源師頼(1068〜1139) 父は左大臣源俊房、母は源実基。橘俊綱(藤原頼通の次男)の養子。 村上源氏。左近衛少将・左右中弁などを歴任し、寛治8年(1094)6月蔵人頭に任ぜられる。 承徳2年(1098)参議として公卿に列し、康和元年(1099)従三位に叙せられる…

岡山ゆかりの歴史2 坂上氏(さかのうえし)

坂上氏 後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とする氏族。 後漢最後の皇帝献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿知使主)であるとする。 その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初…

岡山ゆかりの歴史人物21 坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)

坂上苅田麻呂(727〜786) 父は坂上犬養、母は不詳。上田村麻呂の父。坂上氏は中国の後漢の霊帝の流れを汲むという東漢(やまとのあや)氏に繋がる家系で代々弓馬の道をよくする武門の一族として、数朝にわたり宮廷を守護した。天平宝字年中に授刀衛少尉に任…

岡山ゆかりの歴史人物20 藤原公季(ふじわらのきんすえ)

藤原公季(956〜1029) 父は右大臣藤原師輔、母は康子内親王(醍醐天皇第14皇女)。閑院流の祖。天暦10年(956)、朱雀・村上両天皇の同母姉康子内親王を母として生まれた。幼名は宮雄君。 生後まもなく母が産褥のため薨去したことから、幼少時は姉の中宮安…

岡山ゆかりの歴史人物19 藤原行成(ふじわらのゆきなり)

藤原行成(972〜1028) 父は右少将藤原義孝(摂政藤原伊尹の3男)、母は源保光女。 世尊寺家の祖。 小野道風・藤原佐理と共に、三蹟の1人に数えられる。 天禄3年(972)右少将藤原義孝の長男として生まれ、祖父の摂政藤原伊尹の猶子となるが、祖父は同年中…

岡山ゆかりの歴史人物 18 平忠盛(たいらのただもり)

平忠盛(1096〜1153) 父は平正盛、母は不詳。平清盛の父。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された平安時代末期の武将。 北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた…

岡山ゆかりの歴史人物17 平正盛(たいらのまさもり)

平正盛(?〜1121) 父は平正衡、母は不詳。平清盛の祖父にあたる。 平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。平維衡を祖とする伊勢平氏は伊勢国に地盤を持った武士で、中央では検非違使などとして朝廷の武力として活動していたが、さほど目立った存在では…

岡山ゆかりの歴史人物16 倭建命(ヤマトタケルノミコト)下

倭建命 東征 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。 倭建命は再び倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。 倭姫命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙剣)と袋とを与え、「危急…

岡山ゆかりの歴史人物16 倭建命(ヤマトタケルノミコト) 上

倭建命 景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる人物。諱は小碓尊(オウスノミコト)。 『日本書紀』・『先代旧事本紀』では景行天皇の第二皇子、『古事記』では第三皇子。 母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。『古事記』と『日本書紀』の…

岡山ゆかりの歴史人物15 播磨稲日大娘(はりまのいなびのおおいらつめ)

播磨稲日大娘(?〜122) 『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』に記される第12代景行天皇の皇后。日本武尊(ヤマトタケル)の母。針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢とも称される。 古事記 「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記される。 …

歴史人物2 伝説上の斎王 倭姫命(やまとひめのみこと)

倭姫命(生没年不詳) 『記紀』に伝える古墳時代以前の皇族。 第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。日本武尊の叔母にあたる。 伊勢の地に天照大神を祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎王の直接の起源であるとも伝えられている。 第10代崇神…

歴史人物1 伝説上の斎王 豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)

豊鍬入姫命(生没年不詳) 『記紀』に伝えられる古墳時代の皇族。『日本書紀』では豊鍬入姫命または豊耜入姫命、『古事記』では豊鉏入日売命。 崇神天皇の皇女で、母は紀国造荒河戸畔(あらかわとべ)の娘、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。…

岡山ゆかりの歴史人物14 和気広虫(わけのひろむし)

和気広虫(730〜799) 奈良時代の女官。和気清麻呂の姉。藤野別広虫女とも称される。 従五位下葛木連戸主の妻となるが、その後死別。 孝謙上皇に仕え、天平宝字6年(762)上皇に従って出家し"法均"と号した。 天平神護元年(765)に吉備藤野和気真人の姓を賜…

岡山ゆかりの歴史1 宇佐使(うさし)

宇佐使 平安時代まで、天皇の代替わりなど重要時には宇佐使という勅使が朝廷から派遣されていた。 宇佐八幡宮神託事件にちなみ、宇佐使は和気清麻呂の子孫である和気氏が務めるのが通例であった(ただし菅原道真が左遷された際などには藤原氏から人選されて…

岡山の歴史16 和気氏(わけうじ)

和気氏 備前国和気郡(古くは藤野郡と称した)を本拠とした豪族。 垂仁天皇の皇子鐸石別命(ぬてしわけのみこと)を祖とすると伝えられる。 別氏とも書く。 姓(かばね)は公(きみ)から真人(まひと)、宿禰などを経て774年(宝亀5)に朝臣の姓が与えられ…

岡山の歴史15 吉備氏(きびし)

吉備氏 吉備氏は主として5世紀に繁栄し、吉備を筑紫・出雲・ヤマト・毛野と並ぶ古代の有力地方国家に発展させることに貢献した。 ヤマトの豪族たちと同盟し、日本列島の統一と発展に寄与した。 吉備国内の造山古墳(全国第4位)・作山古墳(全国第9位)など…

岡山の歴史14 山陽道(さんようどう)下

山陽道 古代(飛鳥〜平安) 古代の山陽道の場合も原則30里(当時の一里は約540メートルで、30里は約16キロ)ごとに駅家(うまや)を設けていた。 道幅は約6メートルから9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されており、各国の国府を効率良く結…

岡山の歴史14 山陽道(さんようどう)中

山陽道 駅路・駅・駅馬・伝馬 駅路は、重要な情報をいち早く中央−地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も6mを超えていた。(※中央に近くなるとさらに広い道幅となり数…

岡山の歴史14 山陽道(さんようどう)上

山陽道 古代の行政区画、またはその地域の幹線道路の事。 影面道、光面道(かげとものみち)ともいう。概要 律令時代の山陽道は、畿内(難波京、平城京、平安京)と北部九州(大宰府)を結んでいた。 当時の日本は唐の交通制度にならって「駅制」と「伝制」…